大切なのは、自分自身か?
それとも、相手との関係か?
私たちが「怒り」を表現することを良しとしない傾向にあるのは、なぜだろう?
「怒り」という感情は、自分の大切なものを守るために存在しているともいえる。
例えば犬や猫が自分のテリトリーへ侵入されると怒るし、子供を狙う敵に対しても怒る。
人間だって同じだ。
大切にしているものを傷つけられたら、怒るのが普通だと思う。
なのに。
バカにされても怒れないでいる。
それは、自分が怒った後のことを考えるからではないか?
それは「発言」同様、相手に対しての影響を考えると、より無難な選択をしてしまう。
こんなことで怒っていいのか?
感情的な人間だと思わるかもしれない。
オトナゲない、幼稚な人間だと思われるかもしれない。
協調性がない、トラブルメーカーだと思わるかもしれない。
後でギクシャクするのは嫌だ。
反抗したと思われて更にイジメられるのは嫌だ。
とりあえず今をガマンすればいい。
怒って言ったところで無駄だろう。
バカにされるようなことをした(言った)、自分が悪かったんだ。
「後々のこと」を考えると、自分の本当の気持ちや言葉を飲み込んでしまうことになる。
そもそも「怒り」は良くないことだから、黙ってガマンしていよう、などと考え始める。
さらには、「悪かったのは自分だから」といった発想も。
自分の大切なものを守るためにある「怒り」の感情なのに、じゃあ、私たちは、いつ、どこで、その感情を使えばいいのか?
バカにされた、イジメられた、と、理不尽さを感じた時に使わずに、いつ、使うのか?
ここ最近、人種差別問題で黒人被害者の家族が怒りをあらわにしている様子をTVで見るが…
大切な家族を失ったのだもの、あんな風に怒るのが当然ではないだろうか。
「怒り」を感じるセンサーは、みんな違う。
だから、「この程度のことで怒るのはどうか?」と、自分の「怒り」に対して「正しい。正しくない」のモノサシを当てることをやめることだ。
バカにされても黙っているから、「バカにしてもいい人」として周囲に認識されてしまう。
でも、「バカにしてもいい人」ではないなら、「私はバカにしてもいい人ではありませんよ」と相手に教えてあげないと。
その時に使うのが「怒り」なのだ。
使い方にさえ気をつければ、「怒り」は自分を守る盾となる。
「怒り」を嫌わないで。
そして、本当に大切なものは、自分自身なのか、それとも相手との関係なのか?
考えてみるといいと思う。
