人間不信の自分を責めない。生きる過程で傷ついた自分を許す

私は人見知りではない。
しかし、人とは距離を置いた関わり方を望む。
本当の自分を見せることはあんまりない。
「人間不信」というとちょっと大げさに思うが、人と関わることに恐怖心があることは確かだ。

先日、自分自身に対して、ふと思った。
「人間不信になっても無理はないな」と。

人と関わりたくない、人と関わることに抵抗がある自分のことを、「それは仕方ないことだ」と思えたのだ。

なぜって… 生きてきた過程において、人によっていっぱい傷ついてきたから。
人に傷つけられてきたから。
「人は私を攻撃するもの」とインプットしてきても仕方なかったと思えた。


ここ最近、犬や猫の多頭飼い飼育崩壊など、劣悪な環境でのペット飼育のドキュメンタリーを見る機会が多かったように思う。
そこでペットたちを保護するボランティア団体の人たちには、本当に頭が下がる思いだ。

飼い主側にもそれなりの事情や主張があるのだろうが、食事も満足に食べられずに痩せ細って数匹で固まっている、保護に来たボランティア活動の人たちに必死で抵抗する姿を見て、怒りと悲しみで涙が溢れた。

この子たちがいったい何をしたというのか?
こんな、食事も与えてもらえない状態、排せつ物にまみれて悪臭を放つ状態に、どうして?

多頭飼い飼育崩壊だけではない。
怒鳴ったり暴力を振るったり、体を傷つける虐待を受けたペットたちの話を聞くだけで、苦しくなる。

人間に虐待された犬や猫が人間不信となって人間を恐れることは、当然の結果ではないか。
虐待が、強く、また長期間になればなるほど、その心の傷を修復することは困難になるだろう。

では。
こうした、虐待を受けて傷ついたペットを、「お前はダメな奴だ」と責めるか?

「お前がダメな奴だから虐待されたのだ」と、虐待された子に言うか?

そうじゃないだろ?
「大変な思いをしたんだね」と優しく声を掛け、その境遇に涙さえするんじゃないのか?



私は母親の腹の中にいた時から、父親に暴力を受けてきた。
父親は私をストレスの捌け口としてサンドバック扱いし、母親は自分に起こる都合の悪いことをすべて私のせいにした。

躾と称して、食事を抜かれたことは何度もある。
躾と称して、ほぼ裸で屋外に放り出されたことも、何度もある。
度々、顔や体に青アザをつけたまま学校に行っていた。

それでも私は、「自分が悪いから親に愛されないのだ」と信じて疑わなかったのだ。


虐待されるペットたちは、「自分が悪いから飼い主に殴られるのだ。食事をもらえないのだ」と考えているだろうか?
そして、その虐待を受けたペットたちを見て、私たち人間側はどう思うか?


私は、その意識、その気持ちを、自分自身にも向けてやればいいことだと思う。

「辛かったね。頑張ったね」と。


私は自分の生い立ちを振り返って人に話す時、たまに冗談めいて「よく今まで生きてたよね」と言うこともあるし、「親に暴力を受けてきて、まともな人間に育つわけないよね」と、ひねくれた言い方をする時もある。

しかし、これらは本心であり、自分で自分を庇う行為でもあるのだ。

家庭の中で、何の力も持たない、親の支配下に置かれた幼い子供が、日々虐待されて傷つけられても、幼いながらに必死で生き長らえてきたのだ。

そんな自分を、どうして責められる?


なのに私は、ずっと自分を責め続けて生きてきてしまった。

自分自身に対し、なんて酷いことをしてきたのか。


親という、幼い子供にとって最愛を与えてもらえるべき存在から愛をもらえなかった。
愛を受け取ることができなかった。
愛を感じることができなかった。

それは、子供のせいではない。

そして、その生活のせいで人間不信になったとしても、それはその人のせいではない。
人間不信のせいで、人と上手く関われなくなっても、それはその人のせいではない。

生きてきた過程が原因の「仕方がない」ことなのだ。


だから、自分を責めることは終わりにしよう。

傷ついてきた自分をさらに悪者にするのは、虐待した人がしてきたことと同じことだもの。

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