必要ないなら捨ててしまえ

人間関係において、無理したりガマンしたり、自分だけが一方的に不快感を味わいながら関わっている人はいませんか?



私は、自分にとって大切な人、好きな人ほど、自分をころして相手に迎合する癖があります。
嫌われたくない、受け入れてほしい、拒絶しないでほしい、と思うが故に、相手の負担にならないよう、自分に無理を強いている…
それは、友情においても恋愛においても同じで、その相手を求める想いが強いほど、自己犠牲を払う傾向でした。


その原因は、母親との関係性にありました。
私を嫌い、拒絶してきた母親に対し、愛してほしい、関わってほしいと思う悲しい子供の欲求。
嫌われて疎外されないようにするにはどうしたらいいか?と、未熟な頭で考えた結果、母親の邪魔をしない、「時間がある時にだけ構ってくれたらいいの」とする遠慮しかできない子供が完成したのですね。


そんなコミュニケーションスタイルが人間関係の基盤になってしまった私は、オトナになってからも、自分の好きな人に自己犠牲で付き合うことが普通になってしまった。


でもね、先日、もう、そういう自分はやめようって決めたのです。
そうやって自己犠牲を払って無理してガマンして関わってきた人たちを全部切って、ひとりぼっちになってもいい。
友達誰もいない、寂しいぼっちでいい。
大事なのは自分自身だもの、その自分に無理させてるのはダメでしょ?って。

「もう、いらない」
それは、亡き母親に対して放った言葉かもしれません。
それは、愛してほしかったけど愛されなかった悲しい子供の自分が、母親を捨てた時。
「もう、愛してくれなくてもいいよ。アンタなんか、私の方から願い下げ」

常に「見捨てられ不安」を抱えて他人と関わることは、とても苦しい。
いつでもビクビクして、相手の顔色をうかがい、嫌われないように、拒絶されないように、攻撃されないように、と構えてなきゃならない。

でもね、ちょっと考えてみて。
そんなに必死になって、自分の何を守りたいの?
相手との何を守りたいの?
そんなに必死になるほど、あの人は私に必要な人?
自分をころして下僕のように下出に出なきゃならないほど、あの人が必要?

愛されたい、関わってもらいたい、と思うが故に、相手の悪いところには目をつぶる。
家族よりも世間体を選び、子供を放置して仕事に出かけていた我が母親。
自分の中の寂しさや悲しみ、怒りや憎しみは、見捨てられ不安に勝てず、母親の行動を批判できずに生きてきました。
私たちを育てるために、お金が必要だったから、と、母親への怒りを合理化して飲み込んでいました。
さらには、私が嫌われるような性格だったから悪いんだ、と、自分のことさえ悪者にして。

けれども、もう、必要ないのです。
愛してくれなくても、関わってくれなくても、いいのです。
私は私で生きていきます。

そう思えた、そう腹をくくれたら、意外に頭がスッキリして、なんだかモヤモヤしていた自分が消えました。
そんな、無理しなきゃ関われないあの人って、これからの私の人生に必要?って自問したら、答えは「いらない」でしたから。


現実として、家族や友達、職場の人たちなど、「必要ない」とは言っても存在はします。
なので、物理的に捨てることはできません。
関わらないことは不可能な場合もありますよね。


でも、問題だったのは、その「想い」「気持ち」で、「執着」です。
その「執着」を手放した時、私たちは自由になれる。

今、人間関係で、無理したりガマンしたり、自分を消耗させながら関わっている相手がいるなら、ちょっと考えてほしいのです。
自分の人生、生活において、そこまでして頑張る必要あるのか?って。

ただ気持ちだけ「執着」しているんじゃないか?って。



自分にとって本当に大切なもの、本当に必要なものは何か?
その答えが分かったら、「そうじゃないもの」は手放す。

重い、重い、重すぎる。
もっと自由で、もっと気楽に生きていこうよ。