「うちの子が一番かわいそう」という母の想い

我が子を守りたい母親って、すごいな…と思った話です。


直前の記事の続きですが。

父親の一周忌法要を来月に計画している私は、参会者に往復はがきを出して、参会の有無を確認していました。

都内に住む伯母は高齢のために来られないとのことでしたが、その息子(私の従弟・K君・47歳)まで来られないということ。

それに関して叔父と電話で大喧嘩した私は、K君の様子を聞くために、叔母に電話をしたのでした。


私「おばちゃん、Kちゃんは来てもらえないのかな?」

伯母「Kはね、夜中の2時まで仕事なの」

私「そうなんだぁ。でも、お休みできるでしょ?」

伯母「Kはね、借金があってね。土日も働いているから」

私「そうなんだぁ。私も借金あるよ。それに、〇〇子(私の妹)の旦那も土日バイトしているよ」

伯母「でもね、Kはね、最近血圧が高くてね」

私「あっ、そう。私も血圧高いよ」

伯母「Kは薬飲んでるから」

私「私も薬飲んでるよ」

伯母「でもね、Kはね—-」

とまぁ、こんな調子でした。


伯母が毎度繰り返し言うのは、「Kは〇〇子(K君の元嫁)に騙されて、借金を抱えて必死で働いている」「血を吐いて救急車で運ばれた」「仕事は交代してくれる人がいないから休めない」などなど。

ハッキリ言って、K君が何の仕事をしているのか、私は知りません。

おそらく、知っているのは叔父くらいでしょう。

それに、元嫁に騙されたなんて言っていますが、共通の活動場所で出逢った女性と恋愛結婚で、当時のK君はすでにアラフォーだったのですから、騙すとか騙されたとか、それもちょっと、という感じで。

血を吐いて救急車で、の時は、実は我が家に夜中近くに叔母から泣きながら電話がかかってきて私が対応し、すぐに叔父に連絡して、叔父と2人でお見舞い金を持って翌日に都内の病院まで行ったのです。

それも数年前のことですし、過度の飲酒で胃潰瘍になったことが吐血の原因でした。


私の親戚はほとんど県内に住んでいるため、都内にお嫁に行って未亡人になってしまった伯母のことを、私の父親も叔父も心配していて。

K君に関しては、いじめ?で引きこもっていた時期もあったり、仕事も転職を繰り返していた、うまくいかなかったとかなんとか。

私自身、幼いころから県内に住むいとこ同士とは交流があっても、K君とは交流がない状態が続き、K君の結婚式に呼ばれたのが初顔合わせのようなものでしたが。



とにかく、叔母と話をしても、ラチがあかない。

「うちのKはかわいそうなの」を連発する。

段々イライラしてきた私は「でもね、どこの家も借金くらいあるし、仕事しないと生活できないし、みんな、色々あるよ」と言うと、叔母は、「でもね、うちのKは本当にかわいそうなの」って。



……。

返事をするのも疲れてしまった。


そうか。こうやってこの人は、息子を庇い、守ってきたんだ。

この人は、これが息子を守る手段だと信じているんだ。

息子が矢面に立たずに済むよう、自分が盾になり、様々な「汚れ仕事」を一手に引き受けてきたんだ。

85歳だと言う今も、叔母は、したたかでした。

私、叔母には認知の弱さを微塵も感じることはありませんから。



私には子供はいません。

ですが、もしいたら、どういう母親になったのだろう?と考えてしまいました。

母性というものは、とても強くて美しいものだと思います。

そして、「これが正しい」もないと思います。

それぞれの母性、それぞれの母子関係があっていい。


ただ。

私が叔母との電話を終えて、叔母亡き後、K君はどうやって生きていくのだろう?という、ちょっとした興味が湧いたことも、また事実、でしたね。

私もガマンしているんだから、アンタだってガマンしなさいよ!

自分が、ガマンしてガマンして無理矢理受け入れているものを、他人が簡単にやってのけるのを見て、腹が立つこと、ありませんか?

その裏側には、「私はガマンしてるんだから、アンタだってガマンしなさいよ!」という怒りが貼り付いているのです…



去年の夏に我が家の父親が他界し、私は喪主を務めました。

来月、父親の一周忌の法要を計画し、参会者への連絡をしていたのですが。

一昨日の晩に叔父から電話があり、都内で暮らす伯母とその息子(私にとって従弟)が参会できないとの報告を受けました。

それを聞き、モヤっとした私。

伯母ちゃんは85歳だし心臓が悪いということだから来られないのは仕方ないけど、K君(従弟・47歳)まで来ないは無いでしょ?

この2人、葬式にも四十九日法要にも参会してもらえませんでした。

ですので、叔父に頼んで、一周忌には参会してほしいという私の気持ちを伝えてもらったのですが。


身内のことなので詳しいことは書けませんけど、情が深くて面倒見の良かった我が家の父親は、叔母とK君を何かにつけてサポートして気にかけていたのだから、一度くらい、お線香あげてほしい。

ところが、話を中継してくれた叔父が言うには、K君は仕事があって来られない、と。

なんとも言えないモヤっと感を抱えた私は、昨日の早朝、叔父に電話しました。

そして、K君が仕事だから来られないと言っていることについて、私なりの意見を言った。

すると叔父は怒りだし、「Kの仕事のことも理解してやれ!」と怒鳴って。

そう言われると黙っていられない私もケンカ腰で反論し、結局、激しい口論になってしまいました。


この件を妹に電話して報告しながら、私は電話口で号泣。

叔父に自分の気持ちを理解してもらえないどころか、批判されて、悔しくて悔しくて。

ですが私は、このトラブルを通じて、とても大事な気づきを得たのです。


なぜこんなに、K君に対して腹が立ったのか?

叔父に対して腹が立ったのか?

その答えが分かった。

それは私の心の中にあった、「犠牲者の意識」だったのです。




私は、去年父親が息を引き取った時から、大きなプレッシャーを抱えることになりました。

認知症で施設に居る母親に代わり、喪主を務めないとならない。

そしてその後の処理や法要に関することを、全てしなければならない。

葬儀の後始末、相続関係、遺品の片付け、etc.

当時は母親の施設移動が加わり、妹が手伝ってくれたとは言え、本当に辛かった。

でもそれが、未婚で親と同居する長女の役割なのだと自分に言い聞かせ、弱音を吐く場所もなく、ただただ淡々と処理をしたことを覚えています。

そして今回の一周忌法要。

父親の年金が入らなくなり、蓄えもなかった我が家では、私は自分で自分を養うために働くしかない。

派遣社員として働く給料の中での一周忌法要ですし、ここ最近まで体調も良くなかったため、「できればやりたくない」と思っていたのが事実です。

しかし、子供が亡くなった親の供養としての法要をするのは、世間一般では当たり前のこと。

「やりたくないから、やらない」という選択肢は私にはありませんでした。


だから私は、叔父に言ったのです。

「仕事仕事って、みんな仕事してるんだよっ!? お葬式の時、みんな仕事を休んで来てくれてたじゃん!? それに、家が遠いって、H(母方の従弟)なんて、K君よりもっと遠くに住んでるのに、ちゃんと四十九日には来てくれたんだから!」

けれども、その言葉の裏側にあった、私の真の気持ちは…

「私だって、親の一周忌だから仕方なくやるんだ! だってそれが、世間の常識だろう!? 義理も果たさず、自分の理由で来ないなんて、そんな自分勝手が許されるわけない!」

だったことに気づいた…


やりたくないことなのに、金も労力も出す、時間も使う、気も使う。

でも、そういうものでしょ? 故人の供養って。

私はこの「それが常識でしょ」の「犠牲」になることを、「仕方がないことだ」と諦めていたのです。




どうでしょうか?

こういったこと、あると思うんです。

自分が「タブー」にしているものは、他人にもそれを押し付けてしまう。

ガマンしてるんだから! 頑張っているんだから!

と、自分が自分に無理させていることがあると、他人にもそれを要求してしまうのですね。



私は昨日、この件を通じて、自分の中にこういった「闇」があったことに気づいたのでした。

ただ、親の供養として今後行うものは、やはり、「やりたくない」では済まないと思っています。

ですので、自分一人で負荷を背負い込まないよう、妹や周囲の人たちに手伝ってもらうようにすると決めました。

そして何より、自分の「タブー」を他人に押し付けないこと、ですね。

私がブログでネガティブネタを書く理由

私のブログネタ、けっこうネガティブですよね?(笑)

メンタルセラピストがこんなんでいいんかいっ!?と思いません?


私は「問題解決」が好きです。

なのでメンタルケアの仕事も、「問題解決」を求めています。

そうなると当然ながら、「問題」を扱うことになり、人間のネガティブな部分に触れることになる。

このブログは、そういった流れのものです。

「問題」があって、「問題解決」がある。



私がメンタルケアの仕事を始めて最初にしたことが、ブログをスタートさせることでした。

FacebookもTwitterも無かった当時は、ブログでの集客が一般的でしたので、まずはブログを書くことにしたのです。


その時、自作のホームページを手直ししてくれたweb屋さんに言われたのは、「ブログは読み手に有益な情報を書くこと」でした。

ですが私は、何が有益なのかさっぱり分からず、書きたいことを書いていた。



本来なら、というか、一般的には、メンタルケアの仕事をしている人たちは、今の私のような記事は書かないのが普通でしょう。

私も、こういった内容の記事を何度もバッシングされてきましたし。

「心理カウンセラーが自分のメンタルケアもできないの?」など、何度もコメントを頂戴しちゃいました。


でも私がこういった内容の記事を書くのは、「人間にはネガティブな部分があってもいい。ネガティブな自分を否定して排除しようとしないでほしい」という思いからです。

ブログも集客ツールの一つだと捉えれば、読み手に媚びることも必要かもしれません。

けれども、「自分らしくありたい」と願う私は、この辺に反発してしまうのです。

「有益な情報を」と言っても、何をもって有益な情報とするか?も、人それぞれではないでしょうか?

全ての人を満足させる、どこにも穴のない完全なものなど、この世に無いでしょうし。


確かに私は、自らが「問題」を抱えてばかりいて、ネガティブに陥り、苦しみます。

しかし、自分のメンタルケアができるのが心理カウンセラーなどとは、聞いたこともありません。


バッシングのコメントを頂戴したり、私のスタイルに批判的なことを言われた時は、正直、凹みまくりました。

でも今は、「そういうのも全部マッチングだから、嫌だと思う人は読んでくれなくていいで~す」という意識でいます。

ネットという、顔が見えない、個人が特定できない世界では、人のしていることに対して無責任に意見できてしまうでしょ?

なので、以前ほど気にしなくなりましたよ。


私は、「これが絶対に正解」というものは、世の中にそんなに無い気がします。

それぞれがみんな個性という「人と違っていていいもの」を持っていて、それを公開する場が、ブログとかSNSですよね。



ただ私も、「悪意」を書かないよう、それだけは気をつけているつもりです。

誰かを批判したり攻撃したりすれば、それは自分に返ってきますから。



また、私の仕事は、クライアントの「心の闇」に触れることを避けられません。

それはとても責任が重く、リスキーなこと。

ですから、私自身が「心の闇」をさらけ出し、痛みを分かち合う覚悟を示したい。

クライアントの「心の闇」に触れることを許可してほしい。

そんな気持ちもあって、こうした形でブログにしています。

傷つき過ぎて疲れてしまった心に必要なことは

今日の私は朝からネガティブです。

頭痛がするし、気分は最悪。

せっかくの晴れなので洗濯2回して、本日の業務は終了。

スーパーに食材買いに行くのは明日にして、今日は冷凍ストックで過ごすことにしました。


こんな日はいつも、親友にメールでダラダラ愚痴ります。

って、昨日も長文愚痴メールしたよね?

親友にメール送信した後、占いサイト見たり、読み応えありそうなブログ探したりしてたのですが。


とあるブログを発見。

本出してるとかしてる、成功者なのね。

確かにポジティブなこと書いてるよね。

うーーーん。

でもさー、それって理想論じゃん?

あなたはきっと、「持ってる人」なのよ。

私とは違うの。


とか何とか、書かれていることにイチイチいちゃもんつける自分に気づきました。

全く共感できない。

その通りだとは思えない。

私、すっごくネガティブじゃない?



今私が抱えている苦しみは、「次の仕事が見つかるかどうか?」です。

ストレスまみれの派遣先の次の契約更新をしないと決めたのはいいのですが、そうなると当然、次の仕事を探さないとなりません。


でも、そう簡単には見つからないのが現実で、ハローワークなどの求人サイトを見てはタメ息つく始末。

だもんねー、頭だって痛くなるよねー。



と、ふと思い出したことがありました。

それは、私がメンタルケアの仕事を始めて間もなくのころに出逢った、男性クライアントのこと。


今日、とあるブログを読んだ私は、その時の彼と同じだ。

そう気づきました。


…あぁ、あの彼は、ひどく傷つき、人間不信に陥っていたっけ…

辛くて苦しくて、悲しくて、寂しくて…、世界中に自分の理解者は誰もいないって感じだったね…

あの時、彼の苦しみは、誰かに自分のことを理解してもらいたいという欲求の諦めからくる、苛立ち、怒り、世の中の全てを否定して憎んでいるかのようなネガティブな意識。


そう、そこまで傷ついてしまった人に、ポジティブシンキングを勧めたところで、無駄なのでした。

なのに未熟な私は、ネガティブから脱してポジティブに考えるようなアドバイスばかりを繰り返していたのです。


じゃあ、どんなアドバイスをしたら良かったのか?

それは、今の私に対するアドバイスでもあります。


今は…

「少し休みましょう」

かな?

「今は、何もしなくていいです」

ですね。

無理してポジティブになろうと、ポジティブ寄りの言葉を受け取ろうとしなくていい。

今は、「心が疲れている」のですもん。



風邪をひいた時に、やわらかいお粥を食べたり、温かいうどんを食べるように、心にも、優しくてやわらかい、温かいものを与えてあげる。

それは、「頑張って!」という言葉ではなくて、

「頑張れない時には休んで寝ていていいんだよ」というスタンスの言葉。



人間だけでなく、物事が変化していく時には、「段階」があり、そこには「時間」も必要です。

ポジティブになれない時、頑張れない時、モチベーションがない時、そういう時もあるのが人生。

だって私たちには、「心」があるのですもん。

「心」だって、傷ついて、疲れてしまうことがある。

それが普通。


まずは、マイナスになってしまったエネルギーを、ゼロまで戻す。

休んで、休んで、休んで。

今はまだ、ポジティブじゃなくていいのですよ。

簡単に手に入る「偽物」で誤魔化していないか?

ここ最近のブログネタは「欲求」に関することだな~、と改めて気づかされます。

自分の中の「欲求」を、嫌悪したり憎んだり「不必要なもの」と扱うことの、なんて多いこと。


先日、1日会社を休みました。

ちょうど仕事が手隙になったので、未だ悩まされているめまいを診てもらうために、思い切って休んだのでした。

耳鼻科を午前中に受診して、どこかでランチを食べようかと考えた。

しかし、どこで食べるか全く決まらず、結局マックのドライブスルーに寄って、運転しながらハンバーガーをパクついていた私。

とりあえず、ランチするくらいはお金を持っていたし、今日は休んだのだもの、どこかで美味しいものを食べてもいいんじゃないの?

そう考えてはいたものの、じゃあどこへ入るか?全く決まりませんでした。

その後も、「久しぶりにカラオケ行く?」とか「ちょっと足を延ばしていつも行けないショッピングセンターに行く?」などと頭には浮かぶのですが、その辺をぐるぐると車で回っているだけ。

とりあえず書店に入り、念入りに物色して、何冊か興味の湧いた本を購入。

書店の後は、すぐ近くのショッピングセンターに入り、なんとなくブラブラ。

けど、これと言って買いたいものもなくて。

その後は、ちょっと移動して別のショッピングセンターに。

そこで私は、一目惚れしたバッグを買ってしまったのでした。


が。

お店で見た時には「運命の出会い」のように感じて、「これは絶対に買わなきゃ!」と買ったバッグなのに。

今現在、お店の袋に入ったまま、パソコンの横のハンガーラックに掛けてある…

欲しくて買ったものだったはず。

なのに、帰宅して袋から出すことさえしていない。


実は最近、こういうことが本当に多いのです。

買ってきたまま、袋に入ったまま、値札ついたまま、放置してるって。

まぁ、軽く「買い物依存症」ですよね。

ちょっとショックです。

そんな自分に気づいた後、思いました。

私、「偽物」で満足しようとしているな~、と。


私は誰もが見て分かるデブですが、それは、食べる量が多い、甘いものばかり食べている、からです。

最近知ったのですけど、人間てストレスを感じると食欲増進ホルモンが出るんですってね。

あ~、私、これこれ、って思っちゃいました。

甘いもの食べたいって、近所のコンビニに行く。

最近のコンビニスイーツ超美味い。

何種類かまとめて買う。

帰宅してコーヒー淹れて、まとめて一気食い。

あ~、幸せ~。

って、こんなことの繰り返しです。

食べること、買い物することって、手っ取り早く幸せ感を得られます。

だから、「自分の本当に欲しいもの」じゃなくても、とりあえずの満足を得られるわけで。

でも、「本当に欲しいもの」は相変わらず手に入らないままですから、その場しのぎの幸せ感を重ねるだけで、心はちっとも満たされない。

じゃあ、甘いもの食べるのも買い物するのもやめたらいいじゃない?と思いますか?

いやいや、そうすることで何とか自分を保っていられるのですから、それらが無くなれば悲惨なことになってしまいます。


では、「その場しのぎの幸せ感を味わう」とする「代償行為」は、いったい、何の「代償行為」なのでしょう?

本当に欲しいものは、いったい何でしょうね?

それが、直前の記事にもした、自分の中の「寂しい」に繋がるものだと思います。

「自分の本当の欲求」に気づくことは、ちょっとしたコツがいるのかもしれません。

でも、その真実に気づかず、「偽物」でお茶を濁している方が不幸かな?と思いました。

誰からも相手にされない「寂しい人間」だと笑われたくなかったから

私の、私自身に対しての「気づき」です。

私は、「寂しい」という感情や感覚を持つことを、怖れていました。

つまり、「寂しい」を感じたくない、味わいたくない、と思っていたのです。


我が家の親たちは共稼ぎ夫婦でしたから、子供のころの私はいつも寂しかったと思います。

でも、その「寂しい」を親に訴えることができず、いつからこんな風に考えるようになったのか、「寂しい」を感じたくないために、自分自身を操作するようになったのでしょうね。


私には、「他人からこう思われたくない自分」が、いくつかあって、「面倒臭い奴だと思われたくない」はその1つです。

そして今回気づいたのは、「寂しい奴だと思われたくない」でした。

こんな感覚が私の中にあったことに気づいた私は、ちょっとした衝撃を受けましたが。

世間から「寂しい奴」と思われる人は、周囲の人たちの誰からも相手にされず、誰からも必要とされない、孤独な人。

これが私の中の「寂しい奴」でした。

人間的に魅力がない、人に期待されるような、必要とされるようなスキルも持っていない。

そういう「寂しい奴」だと人から笑われたくないがために、私は、自分の中にある「寂しい」を表面化させないようにした。


若いころは、自分から他人に擦り寄って行っては、必死で自分をアピールしていたと思います。

でも、年を重ねて、そういったアピールが「痛い」年齢になり、「寂しいからかまってほしい」と擦り寄ることをやめたのです。

でも「寂しい」は変わりませんから、私が自分の中の「寂しい」を封印するためにしたことは、「私は孤独が好き」という自分を周囲にアピールすることでした。

そう。

誰からも相手にされない寂しい奴じゃなくて、私が周囲を遠ざけてるの。

だって、独りの方が気楽で、好きなのだもの。

こんな感じでしょうか?

当の本人の私も、この自分が本来の自分だと思っていたくらいです。

けれども、違いました。

「素直じゃない」と言えばそうなのかもしれません。

ですが私は、「寂しい奴」だと笑われることを回避したかった。

だから、本当は欲しくてたまらないものを、「欲しくない」と、「痩せ我慢」していただけなのでしょうね。


心理学でよく使われるのですが、イソップ寓話の「酸っぱいブドウ」という話があります。

高い場所にあるブドウを食べたいキツネは、手が届かずにブドウを取ることができない現実に対し、「あれは酸っぱくて美味しくないブドウなんだ」と言って去る、といったお話です。

まさにこれと同じことを、私はしていたのではないか?

そう気づいてしまった時、恥ずかしいのと悲しいのと…、言葉では言えない気持ちになりました。



私たちは時に、欲しいものがあるけれど、それが手に入らないと認めて傷つく自分を許せません。

傷つく自分を受け入れたくないから、「いや、そんなもの、私には必要ないんだよ」と、「欲しい」とする欲求そのものをなかったことにしたがる。

私は、50歳すぎてこんな感覚を持っていた自分に気づき、驚きました。

…私が?寂しいって?嘘でしょ?と。

でもね、寂しいものは寂しいんです。

だって、職場では、気持ちを分かち合ってくれる人どころか、世間一般的な雑談さえする相手がいないのですから。

家に帰れば猫一匹。

朝から挨拶以外一言もしゃべらずに帰宅する日も、決して珍しくなく、帰宅して猫に話しかけても会話にはなりませんし。


自分の中の「寂しいを認める自分」を解放したところ、「人と喋りたい自分」も同時に解放することができました。

今の職場は、男性の中で女性が1割ほどしかいません。

次の職場は、女性がたくさんいて、思う存分お喋りできる環境がいいな、と思います。

「人に気にしてもらいたい」「人と喋りたい」「必要とされたい」って、人間なら普通に持っている欲求ですよね。

だから、そういう欲求を持っているとカッコ悪い、バカみたい、って思うの、もう、終わりにしました。

自分だけが悪いんじゃない。「継続」できない環境も問題

夕方、ふと思いました。

最近、「私はダメだ」という気持ちにならないな、と。

本来の私は、というか今までの私は、根が暗くてネガティブで、何かにつけては自分を責めていました。

色々とうまくいかないのは、全部自分のせい。

誰かに意地悪されるのは、私がトロいからだ。

仕事がうまくいかないのは、私の能力がないからだ。

理解力や記憶力が低いからだ。

などと言っては、「被害者モード」に入っていました。


が。

今の職場に入ってから、「それはそうでもないかも?」と思う事が多々あって。

仕事でミスを指摘された時、私テキには、それはミスではなくて、知らなかっただけのことでした。

でも、ミス扱いされて悲しい思いをしていたのです。

あると、ある時、今までミス扱いされていたことを指摘した、ある社員が言いました。

「教える方がちゃんと教えていないからいけないんだよ」と。

そして、その社員は、私を責めなかったのです。

私、「え?」って思った。

今までこんなこと、言った人いない。

知っていることだろうが知らないことだろうが、仕事を間違う派遣社員の私が悪いのだとして、私が一方的に責められていましたから。

ですが、今いる職場は「教える側が悪い」というスタンスらしく、数か月前に別部署の仕事をしてトラブった時も、課長自ら私を庇ってくれて仕事を振った若い社員を叱ったこともあります。

ありがたいことに今回の職場は、上司たちに恵まれました。

ストレスを抱えながらも辞めることを悩んでいたのは、その人たちがいたからです。


そんなことが続いたせいか、私は、「何でもかんでも私が悪い」という考えから遠ざかっていたのだと思います。

親友や妹が愚痴聞き役&アドバイザーになってくれていたこともあって、私は「自分を責める癖」を少しずつ手放してこれました。

今の仕事をしてみて、「これは能力の問題ではなく、経験の問題だな」と思うのです。

そして、その「経験」は、その職場に長く居られることで得られるもの。

だとしたら、「長く居られない」は私だけの問題ではない、と考えた。


社員だろうと派遣社員だろうと、パートだろうとアルバイトだろうと、職場の環境、人間関係が良ければ、仕事が合わない限りは続けられると思います。

続けることで経験値が上がり、キャリアとして積み重なって、仕事ができるようになるのではないでしょうか?

企業側は私たち働く側の履歴書を見ては、「すぐに辞める。仕事が続かない」と人間的にダメな奴だとレッテルを貼りたがる。

でも、常に求人を出している、働く側の出入りの激しい企業もあるのです。

なので、その個人ばかりが悪いとは言えないと思った。


私が過去に体調不良で辞めた某派遣先は、2年間で4名の派遣社員が入っては辞め、もって6ヶ月、最短1ヶ月のようでした。

仕事に対しての合う合わない、だけでなく、その職場に対しての合う合わないも、あるのですね。

ですから、「自分が無能だからいけないんだ」「根性が足りないんだ」などとは考えなくてもいいってこと。


数えきれないほどの職場で働き辞めてきた私が、就活で面接に行ってみて思うのは、ずいぶんと雑な扱いをする企業はたくさんあるということ。

面接を受ける側(雇用される側)にはモラルを要求するくせに、面接官から明らかにハラスメントと思えるような質問をされたり、バカにされたりもしてきました。

そういうことも現実としてありましたから、今は、「私なんか」と自分を卑下することなく堂々と就活すべきだな、と思うのです。

「相手がある」場合は、片方だけが悪いということは、あんまり無いでしょ。

「お互いさま」ですよね。