有限な時間の中で、どう生きるか?何を求めて生きるか?

先日、新盆だった我が家に、亡き父の生前の知人であるHさん(68歳、男性)が来てくれました。

Hさんは医療の技術者で、長年、県内の病院で仕事をしていた人です。

10年前に病院を早期退職し、今は全く別の仕事をしているとのことでしたが。


そのHさんと1時間ほど話をさせていただいて、私は、自分の気持ちがとても豊かになるのを感じたのです。

それは、Hさんが医療関係の仕事をしていたことで、私が興味を持っていることが話題になったことや、Hさんの経験が、迷っていたことがあった私の背中を押してくれたからでした。

さすが、長年、患者さんと関わってきた人だな、と思える話し方。

温厚で落ち着いていて、傾聴が身についている。

私なんて自分が話したいのが優先なのに、すごいな、と思いました。



実は私、もっと専門的な心理学を学ぶために通信制大学を受講しようか迷っていたのです。

4月に某大学に出願したのですが、書類の不備があって実現できませんでした。

そこで落ちこんでしまい、モチベーションが無くなっていた…

でも、やっぱり諦められなくて、後期入学をするか悩んでいて。

そのことをHさんに話すと、自分が担当した患者さんで、定年退職してから通信制大学で学んだ人がいると教えてくれました。

だから勉強したいなら年齢なんて関係ないよ、と言ってもらえました。

なので私、とりあえず科目履修生として、学びたいものをピンポイントで選べるシステムを利用することにしたのです。

あんなに悩んで迷っていたのは何だったんだろう?と思えるくらい、サッサと行動(出願)した自分に驚いていますが。




昨日は、親たちの共通の知人である市会議員のYさんと、お話する機会がありました。

そこで選挙の話になり、Yさんが取り組んでいる活動を知ることになって。

それらはYさん自身が経験した「困ったこと」でもあり、地域で問題になっていること。

「昔のようにインフラ整備がメインではなくなってきた」など、市会議員の活動の変化の話も聞かせてもらえました。


Yさんも、Hさん同様に、包容力の高さや知性を感じさせる人。

やはり、市会議員になろうと思うような人は違うな、と思った私ですが。



2人と会って話しをしたことで、このあと私は、考えさせられました。

そして気づいた。

それは、つい最近まで私が苦しんでいたような問題など、本当に低レベルだったということ。

他人を責めて攻撃する、他人の悪口を言う、自分がどれだけ傷ついたかなど被害者モードで訴える…

世の中には、他者のために、地域の人たちのためにと、尽力する人もいるというのに。


私は?

私は、他人を傷つけてまで保身に走る人たちや、優越感を感じたくて自慢話をする人たちや、弱い者いじめして勝った気でいる人たちなど、低レベルで愚かな人たちに振り回されていた。

私自身が一番バカでしょ?

そう思ったのです。


自分はどうなりたいのか?どう在りたいのか?

それは、「ハイヤーセルフ(高次元の自分)」に質問すればいい。

自分が欲する本当の幸せは、ハイヤーセルフが知っているのだから。


私は、自分の知識欲を満たして生きていきたいのです。

そしてそれが、誰かの役に立ったら幸せです。

だもの、誰かに心無い言葉で傷つけられたとか、つまらないから会社行きたくないとか、言ってる場合じゃないよね?


自分が満たされるもののために、幸せだと感じるもののために、行動すればいい。

くだらない低レベルな問題を抱えて苦しんでいたら、時間がもったいないとさえ思えました。

もちろん、YさんにもHさんにも、私のような他人には見せない「心の闇」のような部分もあるでしょう。

しかし、彼らが実際に行動していることは、本物なのです。


人間は、行動まで嘘はつけません。

行動こそ、真実なのですもん。


私たちの命の長さ、私たちに与えられている時間は、有限です。

その有限の時間の中で、「どう生きるか?」を、私たちは選ぶことができる。

だとしたら、何を求めて生きたいか?何を選択して生きるか?

ですよね。

「普通のことが普通にできる人間になりたい」条件付きの愛の末路は…

先日、愛する甥っ子(高1)を叱りつけたことがありました。

お説教中、甥っ子に、「アンタはどういう人間になりたいの?」と質問したところ、甥っ子はこう答えたのです。

「僕は、普通のことが普通にできる人間になりたい」


実はこの答えにより、彼の心の奥にある「闇」に気づかされた私…。

そこには、彼が子供のころからママ(私の妹)に指摘されては叱られ続けてきたことに原因があったのでした。


私の妹は、子供たちの生活態度には口うるさいタイプです。

甥っ子はルーズな性分のため、朝はギリギリまで寝ていたり、その日に学校で食べた空のお弁当箱を出さなかったり、使ったものを片付けなかったり、私から見てもちょっと…ということが目立ちます。

まぁ、先日私が叱ったのも、彼のだらしなさを指摘したことからでした。


でも、彼の言い分をよくよく聞いてみて、気づいたのです。

彼は「親に愛されたい」とする、ごくごく普通の子供の心を持っているだけなのだと。


しかし彼は、ママ(私の妹)の好む行動ができません。

朝早く起きたり、空のお弁当箱を出したり、使ったものを片付けたり、宿題をちゃんとやったり、そういうことがうまくできないのです。

そのため彼は、常にママに叱られてしまう。


おそらく彼は、そういった親子間のコミュニケーションの中で、「そんな当たり前(普通)のことができない自分はダメな人間なのだ」と自分自身にレッテルを貼ってしまったのでしょう。

その結果、「普通のことが普通にできる人間になりたい」と思うようになったのだと思いました。


ところが私は、こんな甥っ子に対し、間違ったアドバイスをしてしまったのでした。

「だったら、ママに好きになってもらえるような子供になったらどうなの?」と言ってしまった。

すると甥っ子は、「じゃあ、まずは自分の部屋を掃除してキレイにする」と言い出しました。

なので私も賛成したのですが…



甥っ子が帰った後、私はなんとなくスッキリしない感覚があり、考え込んでしまいました。

なんかおかしいな。

なんか違う気がする。

と、気づいたのです。

そっか。私は、甥っ子に対し、「条件付きの愛」を提示したんだ。

「ママに好かれる子供になれ」ということは、つまり、「ママの好みの子供=ママの言う事をきく子供になればママに好きでいてもらえるよ」と、甥っ子に言ったんだ。

とんでもない間違いをしてしまった。

それは、絶対に言ってはいけないことだった。


そこで私は、すぐに甥っ子に電話をしました。

すでに23時回っていましたが、とにかく発言を訂正しないといけないと思って。

改めて甥っ子に、こう質問しました。

「アンタが部屋をキレイにしたいと思う目的は何なの?」

すると甥っ子は、「だってママが、部屋をキレイにしなさいって言うから」と答えました。


あー、やっぱり!

やっぱり電話して良かった!


私は言いました。

「それ、ママが軸になってるよね?そうじゃなくて、アンタは自分の部屋が汚いことをどう思ってるか?ってこと。そこはアンタの部屋だから、汚くてもいい、自分的には汚くない、ってアンタが思うなら、掃除しなくてもいいんだよ?」

すると甥っ子は、明らかに何か気づいた様子でした。

「僕は、(自分の部屋が)僕が見ても汚いと思うし、汚い部屋は嫌だよ。だから、掃除するよ。キレイにしておくよ」


私はこの言葉を聞き、「(甥っ子は)これで大丈夫だ」という感覚を得ました。

なのでさらに、「ママに叱られるから、って理由じゃなくて、自分がどう思うか?自分がどう在りたいか?を基準に考えて行動してみて。自分を軸にするって、そういうことだよ」と言ったのです。


私自身、自分の親たちから与え続けられたものは「条件付きの愛」でした。

「自分たちの望む子供でいるなら愛してやる」といった「条件」もと、親の愛欲しさに、「親の望む子供でいる努力」をし続けてきたのです。

「その条件を飲むから、私を愛してほしい」と。

その結果、オトナになってからの自分自身の人間関係が散々だったことを分かっていながら私は、甥っ子に、自分が(親たちに)されて一番苦しかったことをするようアドバイスしてしまった。

「アンタはそのままで十分素晴らしいんだよ」と、言ってやるべき立場なのに。

私は自分を恥じました。



子供は、いつだって親の愛が欲しい。

親の愛を欲しがらない子供なんて、いないのだと思います。

でも親は、自分の子供だからと言って、愛を持って接するとは限らないでしょ?



私ね、思うのです。

すでにオトナである親にとって、子供は生まれた時から「他人」なのだと。

血がつながっている「親子」という立場であっても、「他者」なんですよね。

だから、自分の思うように扱えない他人は、それが「自分の子供」という人間であっても、「無償の愛」「無条件の愛」を与えてあげられなくなってしまうのかもしれない。

親も人間だから、そこは仕方ないんだろうな、と、最近になって思うようになりました。


私は、私の親たちの好む人間ではなかっただけのこと。

甥っ子も、私の妹が好む性質の人間ではない、というだけのこと。

悲しいけれど、それを私は甥っ子に告げました。

親の愛を欲して生きるのではなく、自分自身を軸にして、自分の本心が求める自分の姿で生きるよう言いました。



親の好む性質の人間ではないからと言って、その存在に価値がないわけではない。

「親子という関係性の中では活かされない価値」というだけ。

だから、もう、親が提示してくる「条件付きの愛」に応えようとするのはやめて、自らを軸にして生きるべきなのです。


私は、「親から愛されない価値のない人間」なのだと、自分を認識して生きてきました。

しかし今は、「たまたま我が家の親の好みではなかっただけ」なのだとして、私を「条件付きの愛」で支配しようとした親の呪縛から自由になることを、目標に生きています。


親が提示してくる「条件付きの愛」など、まるめて捨ててしまえ。

そんなもの振り回されて苦しむ必要もないし、そんなもので自分の価値を決められることもないと思います。

本当に、その人と仲良くなりたいですか?その人は、気を使うだけの価値がある相手でしょうか?

今日会社で、ここ最近の意識の変化がようやく定着したのを感じたことがありました。

私は今まで、「人からどう見られているか?どう思われるか?」を気にして生きてきました。

でも今日は、「私はこう思う!」と発言し、そんな自分にちょっと驚いたと言うか。


「人からどう思われるか?」を気にしている時には、「人」⇒「自分」といった視線の方向ですよね。

その「視線の方向」を、いつもと逆にしてみてほしいのです。

つまり、「自分」⇒「人」です。


私も「人に嫌われたくない人」でしたから、言いたくもないお世辞を言ったりして、周囲の人たちに媚びていました。

けど以前、「私はあの人と話したいの?仲良くなりたいの?」と自問したことがあります。

すると答えは「No」でした。



ご機嫌取りしたり媚びたりして、仲良くしてほしい、嫌われたくない、と思うような人って、そもそも、その人のことは好きじゃないんですよ。

仲良くなれる人は、最初からなんとなく気が合うっていうか、嫌じゃない。

やはり「相性」ってあるんですね。

なので、過度な努力をしないと仲良くなれない人は、相性が悪いんだと思ってもいいのかも。


それに、私の中には、「正しいのはいつも他人で、間違えているのはいつも自分」というような意識があります。

だから、何かあるとすぐに自分を責めてしまう傾向。

でもでも、それもよく考えてみると、「相手の存在感」や「相手の言葉の勢い」などに負けてしまい、弱気=私が悪い、になっているかもしれません。


HSPの人って、物事を客観的に見るって、ちょっと苦手でしょうか?

ですので私は、自分目線、自分主観をできるだけ使うようにしています。

相手を優先してしまうのですから、「こういう考えって、かなりワガママかも。自分勝手かも」と思うくらいでちょうどいいと思うのです。


ちょっと普通じゃない、ちょっと変わってるからと、人の輪の中に入りにくいHSPの人っているでしょ。

私はずっと、人に理解されずに生きてきて、いつも孤独で寂しかったし、悲しかったです。

だから仲良くしてもらいたくて、相手のご機嫌取りしたり媚びたりしていました。


でもね、「そこまでして仲良くなりたい相手か?」と、少しだけ自問してみる。

そこにある「自分の本心」が大事なのです。

悪い言い方をすると、「その人は気を使う価値がある相手か?」って感じ?


職場や学校、様々なグループ、コミュニティの中で、「みんなと仲良くなりたい」のは分かります。

しかし、「人からどう思われるか?」を気にしてしまうと、どうしても疲れてしまう。

ですから、「全員と仲良くなれなくてもいい」「全員に好かれなくてもいい」と開き直ることも必要だと思います。

「仲良くなりたいな」と思うような人とは、すでに自然に仲良くなっているはずですし。



「選ぶのは自分」です。

他人に軸を置きやすいHSPの人は、自分が選ぶのではなく、相手から選ばれる方に意識が向く気がします。

でも、そこ、違いますよね。

あくまでも自分軸。

「私はどう思うか?」でOKなのです。