有限な時間の中で、どう生きるか?何を求めて生きるか?

先日、新盆だった我が家に、亡き父の生前の知人であるHさん(68歳、男性)が来てくれました。

Hさんは医療の技術者で、長年、県内の病院で仕事をしていた人です。

10年前に病院を早期退職し、今は全く別の仕事をしているとのことでしたが。


そのHさんと1時間ほど話をさせていただいて、私は、自分の気持ちがとても豊かになるのを感じたのです。

それは、Hさんが医療関係の仕事をしていたことで、私が興味を持っていることが話題になったことや、Hさんの経験が、迷っていたことがあった私の背中を押してくれたからでした。

さすが、長年、患者さんと関わってきた人だな、と思える話し方。

温厚で落ち着いていて、傾聴が身についている。

私なんて自分が話したいのが優先なのに、すごいな、と思いました。



実は私、もっと専門的な心理学を学ぶために通信制大学を受講しようか迷っていたのです。

4月に某大学に出願したのですが、書類の不備があって実現できませんでした。

そこで落ちこんでしまい、モチベーションが無くなっていた…

でも、やっぱり諦められなくて、後期入学をするか悩んでいて。

そのことをHさんに話すと、自分が担当した患者さんで、定年退職してから通信制大学で学んだ人がいると教えてくれました。

だから勉強したいなら年齢なんて関係ないよ、と言ってもらえました。

なので私、とりあえず科目履修生として、学びたいものをピンポイントで選べるシステムを利用することにしたのです。

あんなに悩んで迷っていたのは何だったんだろう?と思えるくらい、サッサと行動(出願)した自分に驚いていますが。




昨日は、親たちの共通の知人である市会議員のYさんと、お話する機会がありました。

そこで選挙の話になり、Yさんが取り組んでいる活動を知ることになって。

それらはYさん自身が経験した「困ったこと」でもあり、地域で問題になっていること。

「昔のようにインフラ整備がメインではなくなってきた」など、市会議員の活動の変化の話も聞かせてもらえました。


Yさんも、Hさん同様に、包容力の高さや知性を感じさせる人。

やはり、市会議員になろうと思うような人は違うな、と思った私ですが。



2人と会って話しをしたことで、このあと私は、考えさせられました。

そして気づいた。

それは、つい最近まで私が苦しんでいたような問題など、本当に低レベルだったということ。

他人を責めて攻撃する、他人の悪口を言う、自分がどれだけ傷ついたかなど被害者モードで訴える…

世の中には、他者のために、地域の人たちのためにと、尽力する人もいるというのに。


私は?

私は、他人を傷つけてまで保身に走る人たちや、優越感を感じたくて自慢話をする人たちや、弱い者いじめして勝った気でいる人たちなど、低レベルで愚かな人たちに振り回されていた。

私自身が一番バカでしょ?

そう思ったのです。


自分はどうなりたいのか?どう在りたいのか?

それは、「ハイヤーセルフ(高次元の自分)」に質問すればいい。

自分が欲する本当の幸せは、ハイヤーセルフが知っているのだから。


私は、自分の知識欲を満たして生きていきたいのです。

そしてそれが、誰かの役に立ったら幸せです。

だもの、誰かに心無い言葉で傷つけられたとか、つまらないから会社行きたくないとか、言ってる場合じゃないよね?


自分が満たされるもののために、幸せだと感じるもののために、行動すればいい。

くだらない低レベルな問題を抱えて苦しんでいたら、時間がもったいないとさえ思えました。

もちろん、YさんにもHさんにも、私のような他人には見せない「心の闇」のような部分もあるでしょう。

しかし、彼らが実際に行動していることは、本物なのです。


人間は、行動まで嘘はつけません。

行動こそ、真実なのですもん。


私たちの命の長さ、私たちに与えられている時間は、有限です。

その有限の時間の中で、「どう生きるか?」を、私たちは選ぶことができる。

だとしたら、何を求めて生きたいか?何を選択して生きるか?

ですよね。

「普通のことが普通にできる人間になりたい」条件付きの愛の末路は…

先日、愛する甥っ子(高1)を叱りつけたことがありました。

お説教中、甥っ子に、「アンタはどういう人間になりたいの?」と質問したところ、甥っ子はこう答えたのです。

「僕は、普通のことが普通にできる人間になりたい」


実はこの答えにより、彼の心の奥にある「闇」に気づかされた私…。

そこには、彼が子供のころからママ(私の妹)に指摘されては叱られ続けてきたことに原因があったのでした。


私の妹は、子供たちの生活態度には口うるさいタイプです。

甥っ子はルーズな性分のため、朝はギリギリまで寝ていたり、その日に学校で食べた空のお弁当箱を出さなかったり、使ったものを片付けなかったり、私から見てもちょっと…ということが目立ちます。

まぁ、先日私が叱ったのも、彼のだらしなさを指摘したことからでした。


でも、彼の言い分をよくよく聞いてみて、気づいたのです。

彼は「親に愛されたい」とする、ごくごく普通の子供の心を持っているだけなのだと。


しかし彼は、ママ(私の妹)の好む行動ができません。

朝早く起きたり、空のお弁当箱を出したり、使ったものを片付けたり、宿題をちゃんとやったり、そういうことがうまくできないのです。

そのため彼は、常にママに叱られてしまう。


おそらく彼は、そういった親子間のコミュニケーションの中で、「そんな当たり前(普通)のことができない自分はダメな人間なのだ」と自分自身にレッテルを貼ってしまったのでしょう。

その結果、「普通のことが普通にできる人間になりたい」と思うようになったのだと思いました。


ところが私は、こんな甥っ子に対し、間違ったアドバイスをしてしまったのでした。

「だったら、ママに好きになってもらえるような子供になったらどうなの?」と言ってしまった。

すると甥っ子は、「じゃあ、まずは自分の部屋を掃除してキレイにする」と言い出しました。

なので私も賛成したのですが…



甥っ子が帰った後、私はなんとなくスッキリしない感覚があり、考え込んでしまいました。

なんかおかしいな。

なんか違う気がする。

と、気づいたのです。

そっか。私は、甥っ子に対し、「条件付きの愛」を提示したんだ。

「ママに好かれる子供になれ」ということは、つまり、「ママの好みの子供=ママの言う事をきく子供になればママに好きでいてもらえるよ」と、甥っ子に言ったんだ。

とんでもない間違いをしてしまった。

それは、絶対に言ってはいけないことだった。


そこで私は、すぐに甥っ子に電話をしました。

すでに23時回っていましたが、とにかく発言を訂正しないといけないと思って。

改めて甥っ子に、こう質問しました。

「アンタが部屋をキレイにしたいと思う目的は何なの?」

すると甥っ子は、「だってママが、部屋をキレイにしなさいって言うから」と答えました。


あー、やっぱり!

やっぱり電話して良かった!


私は言いました。

「それ、ママが軸になってるよね?そうじゃなくて、アンタは自分の部屋が汚いことをどう思ってるか?ってこと。そこはアンタの部屋だから、汚くてもいい、自分的には汚くない、ってアンタが思うなら、掃除しなくてもいいんだよ?」

すると甥っ子は、明らかに何か気づいた様子でした。

「僕は、(自分の部屋が)僕が見ても汚いと思うし、汚い部屋は嫌だよ。だから、掃除するよ。キレイにしておくよ」


私はこの言葉を聞き、「(甥っ子は)これで大丈夫だ」という感覚を得ました。

なのでさらに、「ママに叱られるから、って理由じゃなくて、自分がどう思うか?自分がどう在りたいか?を基準に考えて行動してみて。自分を軸にするって、そういうことだよ」と言ったのです。


私自身、自分の親たちから与え続けられたものは「条件付きの愛」でした。

「自分たちの望む子供でいるなら愛してやる」といった「条件」もと、親の愛欲しさに、「親の望む子供でいる努力」をし続けてきたのです。

「その条件を飲むから、私を愛してほしい」と。

その結果、オトナになってからの自分自身の人間関係が散々だったことを分かっていながら私は、甥っ子に、自分が(親たちに)されて一番苦しかったことをするようアドバイスしてしまった。

「アンタはそのままで十分素晴らしいんだよ」と、言ってやるべき立場なのに。

私は自分を恥じました。



子供は、いつだって親の愛が欲しい。

親の愛を欲しがらない子供なんて、いないのだと思います。

でも親は、自分の子供だからと言って、愛を持って接するとは限らないでしょ?



私ね、思うのです。

すでにオトナである親にとって、子供は生まれた時から「他人」なのだと。

血がつながっている「親子」という立場であっても、「他者」なんですよね。

だから、自分の思うように扱えない他人は、それが「自分の子供」という人間であっても、「無償の愛」「無条件の愛」を与えてあげられなくなってしまうのかもしれない。

親も人間だから、そこは仕方ないんだろうな、と、最近になって思うようになりました。


私は、私の親たちの好む人間ではなかっただけのこと。

甥っ子も、私の妹が好む性質の人間ではない、というだけのこと。

悲しいけれど、それを私は甥っ子に告げました。

親の愛を欲して生きるのではなく、自分自身を軸にして、自分の本心が求める自分の姿で生きるよう言いました。



親の好む性質の人間ではないからと言って、その存在に価値がないわけではない。

「親子という関係性の中では活かされない価値」というだけ。

だから、もう、親が提示してくる「条件付きの愛」に応えようとするのはやめて、自らを軸にして生きるべきなのです。


私は、「親から愛されない価値のない人間」なのだと、自分を認識して生きてきました。

しかし今は、「たまたま我が家の親の好みではなかっただけ」なのだとして、私を「条件付きの愛」で支配しようとした親の呪縛から自由になることを、目標に生きています。


親が提示してくる「条件付きの愛」など、まるめて捨ててしまえ。

そんなもの振り回されて苦しむ必要もないし、そんなもので自分の価値を決められることもないと思います。

本当に、その人と仲良くなりたいですか?その人は、気を使うだけの価値がある相手でしょうか?

今日会社で、ここ最近の意識の変化がようやく定着したのを感じたことがありました。

私は今まで、「人からどう見られているか?どう思われるか?」を気にして生きてきました。

でも今日は、「私はこう思う!」と発言し、そんな自分にちょっと驚いたと言うか。


「人からどう思われるか?」を気にしている時には、「人」⇒「自分」といった視線の方向ですよね。

その「視線の方向」を、いつもと逆にしてみてほしいのです。

つまり、「自分」⇒「人」です。


私も「人に嫌われたくない人」でしたから、言いたくもないお世辞を言ったりして、周囲の人たちに媚びていました。

けど以前、「私はあの人と話したいの?仲良くなりたいの?」と自問したことがあります。

すると答えは「No」でした。



ご機嫌取りしたり媚びたりして、仲良くしてほしい、嫌われたくない、と思うような人って、そもそも、その人のことは好きじゃないんですよ。

仲良くなれる人は、最初からなんとなく気が合うっていうか、嫌じゃない。

やはり「相性」ってあるんですね。

なので、過度な努力をしないと仲良くなれない人は、相性が悪いんだと思ってもいいのかも。


それに、私の中には、「正しいのはいつも他人で、間違えているのはいつも自分」というような意識があります。

だから、何かあるとすぐに自分を責めてしまう傾向。

でもでも、それもよく考えてみると、「相手の存在感」や「相手の言葉の勢い」などに負けてしまい、弱気=私が悪い、になっているかもしれません。


HSPの人って、物事を客観的に見るって、ちょっと苦手でしょうか?

ですので私は、自分目線、自分主観をできるだけ使うようにしています。

相手を優先してしまうのですから、「こういう考えって、かなりワガママかも。自分勝手かも」と思うくらいでちょうどいいと思うのです。


ちょっと普通じゃない、ちょっと変わってるからと、人の輪の中に入りにくいHSPの人っているでしょ。

私はずっと、人に理解されずに生きてきて、いつも孤独で寂しかったし、悲しかったです。

だから仲良くしてもらいたくて、相手のご機嫌取りしたり媚びたりしていました。


でもね、「そこまでして仲良くなりたい相手か?」と、少しだけ自問してみる。

そこにある「自分の本心」が大事なのです。

悪い言い方をすると、「その人は気を使う価値がある相手か?」って感じ?


職場や学校、様々なグループ、コミュニティの中で、「みんなと仲良くなりたい」のは分かります。

しかし、「人からどう思われるか?」を気にしてしまうと、どうしても疲れてしまう。

ですから、「全員と仲良くなれなくてもいい」「全員に好かれなくてもいい」と開き直ることも必要だと思います。

「仲良くなりたいな」と思うような人とは、すでに自然に仲良くなっているはずですし。



「選ぶのは自分」です。

他人に軸を置きやすいHSPの人は、自分が選ぶのではなく、相手から選ばれる方に意識が向く気がします。

でも、そこ、違いますよね。

あくまでも自分軸。

「私はどう思うか?」でOKなのです。

色々スタートさせます。無料カウンセリング・電話・スカイプ・メール

Heart-Labより、ご案内です。

8/1明日から、新しいサービスをスタートさせます。

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また、引き続き、HSP気質で生きづらさを抱えている人からのメールも受付中です。

お待ちしております♪




ここ数日、ほんと、暑いですよね~

愛猫のためにエアコンをつけて会社に行くのですが、帰宅すると、下階でも28℃くらいあってビックリです。

つい先日までは雨でジメジメしていたのに、こんなに急に変わると健康に悪いわ~

「暑いし! なんか、色々言いたい!」

と思うところがある方は、どうぞ遠慮なくメールくださいませ。

ストレスやマイナスの感情は、言葉にして吐き出すとスッキリすることが多いですよ。

「聞いてもらえるだけでいい」 理解を求めず、吐き出すことを目的に

私は自分がHSPだと分かってから、ひとつ、やめたことがありました。

それは、「他人に自分の言いたいことを理解してもらおうとすること」でした。

「私の言い分を分かってほしい」という気持ちを、捨てたのです。


私は以前から「みんな、話せば分かってもらえる」と思い込んでいました。

でも、どんなに話しても説明しても、全然分かってもらえないどころか、頭から否定され、批判され、攻撃されて孤立する結果になることが、あまりにも多すぎたと思います。

HSP気質の私は、話をする時にも他人軸で、相手の顔色をうかがって自分の本心を言えませんし、感情的になるので泣いたり怒ったりして話にならないことがほとんどでしょう。

なので、HSP気質のそういう自分なんだと分かった今回、もう、そこに期待をするのはやめたのです。



先日、会社でとてもショッキングな出来事がありました。

それは、とある上司から、心無い、傷つく言葉を言われたからです。

もちろん、その上司は、私がそれで傷つくなど微塵も思っていなかったでしょうけど、その言葉の破壊力はすさまじく、私はいまだに引きずってしまっている。

問題にすれば、パワハラやモラハラとして扱われる言葉だと思います。

でも、派遣社員である私には、派遣先の上司であるその人に対して何もできず、泣き寝入りするしかない。

けど、傷ついた自分の心が…、というよりも、私は私がかわいそうになりました。

こんなに一生懸命に働いているのに、それはないでしょ?と。

友達や妹に話をしましたが、「悔しい」「悲しい」が解消できませんでした。

そこで私は、職場の、ある男性社員に、自分が言われて傷ついた話をしたのです。

するとその男性社員は、言いました。

「僕も前に、同じようなことがあったよ。あまりにも悔しくて(社員の)〇〇さんや△△さんに愚痴った。そうやって、誰かに話すことも必要だと思う」


正直言って、私、驚きました。

もっと、厳しいことを言われるんじゃないか、と思っていたからです。

でも、その男性社員は、まるで「人に話して、ちょっと悪口大会してもいいんだよ」と言ってくれているようだった。



そこで私は、気づいたのです。

「分かってほしい」ではなく、自分に中にある本心やホンネを吐き出すだけでもいいんだ、と。


傷つかない自分、怒りを抱えない自分、愚痴や人の悪口を言わない自分。

そういうのって、私にはハードルが高すぎる。

だから、「分かってくれる人」じゃなく、「話を聞いてくれる人」に、傷ついたことや愚痴、悪口を言おう。



そして私は、しばらく時間をかけて考え、後日、別の上司に話を聞いてもらうことに決めたのでした。

私はこの上司に対して、とても自然に、相手の顔色をうかがうことなく、自分の中にあった「言いたいこと」を全て言えたと思っています。


後になって思いましたが、それはこの上司が、穏やかで攻撃的ではない性格だったことがその理由ではないか?と。

考えてみれば、「人の話を聞かない人」は、攻撃的な傾向があります。

人の話に耳を傾けるより、自分の意見を言う方が忙しい。

でも、最初に話をした男性社員も、この上司も、攻撃的なタイプではないのです。

まぁ、そうですよね。

「話しやすい人」というのは、穏やかで包容力がある人ですもんね。


私の親友も、私の妹も、感情的なタイプではありません。

口数が少ないわけではないけど、いきなり批判したり否定したりと、攻撃してくることはない。

だから、思いました。

そっか、私はこれから、こういうタイプの人たちを選んで話を聞いてもらえばいいんだ、と。



話をする時、「分かってほしい」「共感してほしい」を目的にすると、そこに生まれる期待も「分かってくれるだろう」「共感してくれるだろう」になりますね。

なのに、「分かってもらえない」「共感してもらえない」とする結果になった場合、ショックも大きくなる。

なので、そこを目的にするのはやめ、まずは自分の中の気持ちや事情を「聞いてほしい」にしたらどうか?

そうすれば、自分の周りに存在する「分かってくれる人」より「話を聞いてくれる人」の確立の方が、高くなるんじゃないか?



私がとある上司から心無い言葉で傷つけられたことを話すと、話を聞いてくれた上司は、「ちょっと酷いから本人に注意しようか?」と言ってくれました。

でも私は断りました。

別の上司に話したことで告げ口したと思われるなどして、関係が悪化するのだけは避けたかったので。

「ただ、聞いてほしかっただけなので」と言って話を終えた後、「あー、スッキリした」と実感することができたのが事実です。

話をしたことへの罪悪感もないし、言い足りなかったと不満足感もありませんでした。

もちろん、事実も本心も全て話しましたから。



私の親友が、よく「ごめんね、私は話を聞いてあげることしかできなくて」と言います。

ですが、その度に思う。

その「話を聞くだけ」が、どれだけ私を救っているか。

「あなたがいてくれるだけで、話を聞いてくれるだけで、私には十分なんだ」

そう思うのですよ。



自分の中にあるネガティブな気持ち、傷ついた事実を、吐き出すだけでいいのです。

「分かってほしい」はちょっと脇に置いて、穏やかで攻撃的じゃない人に、「聞くだけ聞いて」と愚痴ってみること、オススメします。

ひとつずつから始める。意識して「心と体が楽な方を選ぶ」こと

「私はHSPなんだ」と自覚してから、気づき多い毎日を生きています。

そこで自分なりにHSPと向き合って戦っていく覚悟をしました。

でも、何事にも「段階」があり、生まれ持った気質であることと、すでに52年間の習慣になってしまったことを急に簡単にはひっくり返せないな、と思ったので、まずは小さな目標を立てながら生活しています。


それは、「自分の心と体が楽な方を選ぶ」といった、小さな小さな目標です。

HSPの人って、無意識で「無理」「ガマン」する方を選んでしまう。

なぜなら、生活の全てが「他人軸」だから。

それを「自分軸」に戻すためには、無意識で行っていた「無理」や「ガマン」をしないようにするしかないかな~と思うのですよ。



昨日は、我が家の父親の一周忌法要でしたが、それも、ゴタゴタする親戚連中を呼ぶのはやめ、私と妹親子だけで行いました。

ありがたいことに、その状況を理解してくれたお寺の方丈さんから「子供と孫が来てくれたら、それが一番いいんですよ。自分たちのやり方でいいんです。自分たちで形を作っていけばいいんですよ」と言ってもらえました。

人間関係で怒りを溜め込んでは、極限までガマンして、ちょっとしたことがトリガーとなって一気に爆発して人間関係を壊してしまう…

といった生き方しかできなかった私には、その言葉が心に沁みました。


その法要後に妹親子と一緒にランチに行きましたが、そこでは妹夫婦が、私の分の食事代を支払ってくれたのです。

妹夫婦も共稼ぎをしていて、家計は決して楽ではありません。

ですが今回、お寺さんに支払った御布施も一部負担してくれたりして、派遣社員で働く私のお財布事情に気を使ってくれました。


今までの私は、そういうところで「おかしな意地を張る」傾向でしたが、HSPなんだと自覚してからは特に、「自分に無理をさせない。ガマンさせない」ことを徹底するようにしたのです。

「助けてあげる。協力してあげる」と言ってくれているのだから、その好意は素直に受け取ろうって。



実は先週から体調がだいぶ悪くて、水曜日の昼に会社を早退してから、木曜日、金曜日と欠勤してしまいました。

それも、「会社を休むこと」に罪悪感を抱える私にとって、とても大きなチャレンジだった。

「ちょっと無理すれば(会社に)行ける」

それが私のいつものスタイルです。

水曜日の朝、頭痛で目覚めた私は、会社を休むことができずに頭痛薬を通常の倍の量飲んで出勤。

しかし、結局薬が効いてこなくて、座っているだけでもキツい状態に。

「これじゃあ、自分を大切にしているとは言えない」と反省せざるを得ませんでした。

こういう時、「情けない」と考えてしまうのは、もしかしたらHSPの人の特徴かもしれません。

でも、「頑張って」早退し、「頑張って」会社を2日連続で欠勤しました。


おかしいでしょ?

自分の体調を優先するのに「頑張って」って。

けど、そうしないと自分を優先できないのが私なんですよね。



昨日、一周忌法要の後、妹親子と一緒にランチをし、さらにその後、大好きな甥っ子と買い物へ。

すでに頭痛も治っていたし、『私の「楽しい」は、大好きな人と行動すること』だと考え、大好きな甥っ子を買い物に誘ったわけです。

そして、この上なく楽しい時間を過ごせました。


今日は、洗濯をして、部屋の床掃除だけしました。

料理もせず、朝は焼いた食パンとカップスープ、昼はカップラーメン(笑)

おやつに菓子パン食べたりアイス食べたり(笑)

つい先ほどまで、ベッドに寝転がってウトウト昼寝。


こういう時決まって、自分の中の「2人の自分」が言い合いをします。

浩子A 「何やってるんだ!?サボってるな!日曜日も働け!掃除しろ!」

浩子B 「え~!?日曜日なんだもの、ダラダラしようよ~」

私の頭の中のこうした「言い合い」は、いつも、なのです。

そしていつも、浩子Aが勝ちます。

仮に浩子Bが勝った時には、「罪悪感」がずっと続きます。

なので私は、「罪悪感をどうするか?」が、今後の課題となりました。



「私はHSPなんだ」と分かったから、「HSPの人は自己犠牲を払うことがほぼ毎度なんだ」と知ったから、とにかく今はその「自己犠牲」を避けることが目標です。

それには、「無理」「ガマン」をしない、「心と体が楽な方を選ぶ」とする選び方を、その都度意識してしていくしかないのだと思います。

「自分を大切にする」こと。

まずはそこから。

「浩子」が許せない「浩子」だったけど

私は自分の名前(漢字)が嫌いでした。

「浩子」とは父親がつけたらしいのですが、その父親からいつも言われていたのが、「浩子なんてつけて失敗した」だったのです。

父親が言うには「水のように告げる、って、口数が多い」って。

まぁ、子供のころから「どこにいるか分かる」と言われるほどの独り言を言っていたようですし、黙っていることができない性分なのですね。

なので常に、「失敗した、失敗した」と言われ続けていたわけです。



しかし、この名前(漢字)の本当の意味ってちょっと違うぞ、と思えたのは、メンタルケアの仕事を始める前の、スピリチュアルにハマっていた時なのでした。

「浩子」の「浩」の「さんずい」は=「水」で、「水」=「感情」だと知る機会が来ました。

つまり、「浩子」は「水のように告げる」=「ベラベラ喋る」のではなく、「感情を告げる」という意味なのだと。


ところが、実際の私はHSP気質ですから、一番言わないのが「自分のホンネ(感情)」で。

人にどう思われるか?を気にしたり、人の気持ちや事情を優先するあまり、「自分の気持ち」を抑圧する生き方をしてきたのです。

でも、HSPに関する本を読み、その特徴や傾向を知ったことで、気づいた。

そっかぁ、私は、「浩子」という自分自身を、最も否定していた人間なんだ。…と。


メンタルケアの仕事を始めた時、私は自分の本名を公開できませんでした。

ですが、やがて公開できる時は来て、「浩子」という名前をホームページにも出すことができたのに。

数年前、突如として、この漢字で出すことが嫌になったのです。

なぜって、「浩子」という漢字が嫌いだったから。

そこで私は、メンタルケアの仕事をする時には「緋呂子」を使うことにしました。

「浩子」なんて地味で暗くて、水っぽくてビショビショしてるから嫌。

「緋」は明るい赤色「緋色(スカーレット)」だもの、こっちの方が絶対いいでしょ?と。

何より、「口数が多い」だけではなく、「私は言葉で人を傷つけ、自分も傷つく」という思い込み、決めつけがあったから「浩子」を嫌っていた。


でも、気づいたのです。

こうして本来の自分自身(浩子)を嫌って使わないってことこそ、自分を認めていない、受け入れていない、許していない、ってことなんだ、と。



名前って、生まれてくる時に自分で決めてくる、と言われます。(私はこの話を信じています)

そして「名は体を表す」と言いますから、「名前」はその人の生き方そのものだと思うのです。

なのに私は、「ありのままの自分で生きる」とかカッコいいことばかり言って、実はありのままの自分で生きようとしていなかったわけですよね。


「名前」と、その人の人生って、関係あると思います。

名前を変える人にとっても、名前って大きな影響を及ぼすものだからそうしたのだろうし。


私は今日、改めて、というか初めて、「自分を認めて受け入れる」という状態が理解できたように思えました。

「浩子」という漢字が持つ個性を受け入れずに、何をもって「自分を認めて受け入れる」なのか?

私はやっぱり「浩子」なのです。

どこにいるか分かるくらい大声で独り言言うし、口数多いし、余計な一言も、痛い図星の一言も言う。

でも、口から出るのは、ネガティブな言葉だけじゃない。

そう思って今日は、「浩子」という漢字の名前を、認めて受け入れることに決めました。