自分がHSPだと分かってショックを受けた後のこと

ここ最近、書店で「HSP」なるものの著書を見ること、多くなりました。

「HSP」とは、 Highly Sensitive Person の略です。

生まれつき敏感な人ということで、5人に1人くらいいるそうです。



先週、職場でちょっとショッキングな出来事がありました。

(詳細は後で書きます)

そのことに対してちょっと信じられないような異常さを感じ、かなり落ち込んでしまったのと同時に、「どうして私はいつもこういったことで傷つくのだろう?」と深く考え込んでしまったのです。

こういうこと、普通にあるんだろうか?

みんな、こういう経験を普通にしているのだろうか?

父親の一周忌法要のことでゴタゴタしたばかりでしたから、立て続けに起こる人間関係のトラブルに、本当に落ち込んでしまったのでした。



そこで金曜日、思い切って会社を休み、どこかでランチでも食べながらリフレッシュしよう、などと考えていたのですが…

気持ちが上がらないばかりか体調も悪くなり、気力もなくて、午前中寝込んでしまう羽目に。

でも、猫のご飯を買いに行かないとならず、午後になって頑張って外出したのです。

猫のご飯はいつも市外の大型ショッピングセンターへ行って買います。

しかし、買い物大好きな私も、さすがにこの時はウインドウショッピングする気にもならず、猫のご飯だけ買って帰路についたのですが。

これでは食事の支度もできないと考え、自宅までの間にあった別のショッピングセンターでお惣菜を買って帰ることに。


そこでふと、本の売り場に足が向きました。

ここ最近の自分の悩みを解決できるようなヒントがあるかもしれない。

そう思って本の売り場に行き、目についた本は…

「HSP」=「 Highly Sensitive Person 」に関する著書でした。


私は、自分がこういったトラブルを抱える人間だということを、認めない傾向でした。

それは、メンタルケアの仕事をしているくせに自分自身が悩み苦しんでいる、という現実を、恥じていたからです。


数年前、とある人に「うつ病になったような人に心理カウンセリングしてほしくない」とハッキリ言われたり、自律神経失調症で受診した当時の掛かりつけ医に「そういうの(ストレス)に対応する仕事をしているんじゃないの?」などと言われたりしたことで、いつしか、「悩んでいる自分」を隠すようになりました。

それでも、ブログでこうして自己開示することにより、自分と同じ苦しみをしている人の役に立つかもしれない、と、本当に小さな希望を抱いて書き綴ってきたのですが…


私はそこの本の売り場で、HSPに関する本を買いました。

そして帰宅後、一気に読んだ。

読んで気づいたことは、本に書かれていることの全てに自分自身が当てはまる、ということでした。


ショックでした。

問題の解決を求めて買った本が、こんな結果をもたらすとは。

そして私が思ったことは、

「HSPなんて、最悪だ。どうやって生きていったらいいんだ?やっぱり私はダメ人間じゃないか!」

だったのです。

まぁ、こう考えてしまうところが、まさにHSP気質、ということなんでしょうけどね。



本には、HSPの人の特徴と、生き方に対するアドバイスが書かれています。

興味がある人にはぜひオススメしたい。

『敏感すぎて生きづらい人の 明日からラクになれる本』

著者の長沼睦雄先生は、「日本では数少ないHSP臨床医」とのこと。

山梨県甲府市出身ということも、親近感が湧いた理由の一つです。


会社に行っては気を使い、疲れ果てて週末は動けなくなる、といった慢性疲労状態もHSPの特徴のようです。

それ以外にも、自分に起こっていた様々なことが、本を読んで全て納得できました。


私は、苦しい人生を終わりにしたい。

人と居ると疲れてしまうから、誰かと話をしたくてもできない自分。

人にどう思われるか?ばかり気にして、自分のホンネを抑圧してしまう自分。

普通の人が普通にできることが、できない自分。

普通の人なら普通に耐えられることが、耐えられない自分。

そして、こういう自分だからダメなんだ。こういう自分だから愛されないんだ。と、自分を責め続けてきた自分を、もう、終わりにしたい。


本を読んだ直後は落ち込みましたが、「嘆くだけの人生は嫌だな」と思ったのです。

なので今後は、HSPな自分を恥じることなく、責めることも隠すこともせず、今まで以上にありのままの自分自身を綴っていこうと決めました。


世の中には、「普通」というゾーンからはみ出して生きている人がいます。

でもそれは、「悪」なのでしょうか?

もしかしたら…私は、それらを「悪」だと思っていたんだと思います。

「普通」からはみ出している自分を、一番嫌っていたのは私自身だったのだと思います。


今、水星逆行中ですから。

「リベンジ」「リスタート」にはいい機会。

自分を認めて、受け入れて、許して、愛してあげる。

「普通」からはみ出している自分でもいいんだ、と、自分に言ってあげることが、幸せへの第一歩だと信じています。

もっと自分勝手でいい。大皿で来た料理を取り分けない私

「人と関わると疲れてしまう」のは、「ついつい人にいい顔してしまう」「怖くてNoが言えない」などの理由を持っていることが多いようです。

私もその一人で、人に対してピエロになりたがる自分がいます。

媚びて、笑顔をふりまき、自虐ネタで笑わせて…

あとになって虚しくなる。


でも私はここ数年、そんな自分を少しずつですが手放してきました。

これは簡単に言うと、自分に対して「もっと自分勝手でいいんだ」と、自分を許したことにあります。



例えば。

去年の夏、とある関係者たちの親睦会に参加しました。

そこでは女性ばかりのテーブルに着き、料理が次々と大皿で運ばれてきて…

お世話好きな人がいて、料理をせっせと取り分けてくれるのでした。


今の私、それ、絶対にやりません。

基本、「食べたい人が食べたいだけ取ればいいでしょ」という考えなので。


でも、こういうことをしない、と決めたばかりのころは、常に罪悪感との戦いでした。

元々が 「笑顔をふりまいて大皿の料理を取り分ける気が利く女を演じる女」でしたから。

「気が利かないと思われるのではないか?」「人に料理を取ってもらってて自分は何もしない人って思われるのではないか?」など、

「人にどう思われるか?」が頭の中でグルグルと回ってしまい、ついにはフリーズしてしまうことも。

そうなるともう、こういった機会を避けるしかなく、いつの間にか、すっかり「人付き合いが悪い人」になっていました。



でもね、世の中にはいろんな人がいて、その価値観も行動も、本当に様々ですよね。

自分の「好き」と人の「好き」は違うし、自分の「嫌い」も人の「嫌い」とは違う。

だから、親睦会で大皿の料理を取り分けようとどうしようと、たいしたことじゃないんですよ。

「こういう時には料理を取り分けるものだ」と思っている人は、そうすればいい。

「料理を取り分けてあげたい」と思っている人も、そうすればいい。

私は「勝手に取って食べるから放っておいてほしい」人なので、あんまり世話を焼かないでほしいのです。



良かれと思ってしていることの全てが、相手に喜ばれているわけではありませんよね?

だったら、「人にどう思われるか?」を気にし過ぎずに、自分の好きにしていていいのではないでしょうか?


数年かけて私はようやく、「笑顔をふりまいて大皿の料理を取り分ける気が利く女を演じる女」という自分を手放すことができました。

このプロセスにおいて、「そうしてあげたい」と自分軸で動くのなら構いませんが、「そうしなければいけない」と他人軸で動くのは最終的にいい結果は生まない、と学びました。


「自分勝手」という言葉は悪いイメージのようです。

でも、「人によく思われたい」「人に悪く思われたくない」などの下心がある「見返りを求めた行動」よりは、ずっと純粋ではないか?と思う私です。

終わったことなのにいつまでもクヨクヨしちゃう人へ

世の中には、ネガティブなことからサッと気持ちを切り替えることができる人と、できない人がいます。


私は後者で、いつまでもクヨクヨウジウジと「引きずるタイプ」です。

ですが私は、そんな自分の性質を「ダメだ」とは思っていませんし、「それなりに対処」をしています。

その対処とは、「徹底的に自分と向き合うこと」です。



「終わったことなのに」「どうにもならないことなのに」と、自分では分かっていても、どうしても、気持ちが向かってしまう。

それは、そこに「未完了なままの感情」があるからなのです。


つまり、中途半端に残ったままの気持ちや意識が存在しているから、それを見ないでいる(気にしない)ことや、頭を切り替えて別のことに集中するのは、少し難しい。

ですので私は、中途半端に放置しておくのをやめ、「未完了なままの感情」を「完了させる」ことにしています。



そのプロセスとして、まず、自分の中にある「未完了のままになっている気持ち」を探すことから始めます。

怒りや悲しみ、妬みや憎しみなどの、自分の中で未だくすぶっているネガティブな感覚を探すのです。

「未完了」とは、「不満足」の状態でもありますから、「自分は何が不満足か?」と考えてみてほしい。

「どうなったら自分は満足するか?」と考えると、答えは見つかりやすいです。



自分の中にある「未完了のままの感情」が分かったら、次は、「どうなったら自分は満足するか?」の「満足している状態」を考えます。

そしてその、「満足している状態」が、本当に自分にとって必要なのか?を考えるのです。



この辺のプロセスに来ると、かなりの気づきを得ているはず。

自分の「満足したい状態」が、全く現実的なものでなかったり、欲しいと思っていたけどそうでもなかったりして、それが「単なる執着」だったと気づくことが多い。



人間、手に入らないとなると、どうしても手に入れたくなりますね。

でも、それは、最初からいらないものだ、ホントは欲しくなかった、と分かったら?



ここまでのプロセスは、何時間も要するものではありません。

もちろん、何日もかけて考える時もあるでしょうけど、基本的に思考を使って行うことですから、ちょっとだけ自分と向き合う時間があれば十分。

「気にしない」ができずに引きずってしまう、私のようなタイプの人にはオススメしますので、ぜひ、試してみてくださいませ~

逃げられないなら、向き合うしかないですよ。

「うちの子が一番かわいそう」という母の想い

我が子を守りたい母親って、すごいな…と思った話です。


直前の記事の続きですが。

父親の一周忌法要を来月に計画している私は、参会者に往復はがきを出して、参会の有無を確認していました。

都内に住む伯母は高齢のために来られないとのことでしたが、その息子(私の従弟・K君・47歳)まで来られないということ。

それに関して叔父と電話で大喧嘩した私は、K君の様子を聞くために、叔母に電話をしたのでした。


私「おばちゃん、Kちゃんは来てもらえないのかな?」

伯母「Kはね、夜中の2時まで仕事なの」

私「そうなんだぁ。でも、お休みできるでしょ?」

伯母「Kはね、借金があってね。土日も働いているから」

私「そうなんだぁ。私も借金あるよ。それに、〇〇子(私の妹)の旦那も土日バイトしているよ」

伯母「でもね、Kはね、最近血圧が高くてね」

私「あっ、そう。私も血圧高いよ」

伯母「Kは薬飲んでるから」

私「私も薬飲んでるよ」

伯母「でもね、Kはね—-」

とまぁ、こんな調子でした。


伯母が毎度繰り返し言うのは、「Kは〇〇子(K君の元嫁)に騙されて、借金を抱えて必死で働いている」「血を吐いて救急車で運ばれた」「仕事は交代してくれる人がいないから休めない」などなど。

ハッキリ言って、K君が何の仕事をしているのか、私は知りません。

おそらく、知っているのは叔父くらいでしょう。

それに、元嫁に騙されたなんて言っていますが、共通の活動場所で出逢った女性と恋愛結婚で、当時のK君はすでにアラフォーだったのですから、騙すとか騙されたとか、それもちょっと、という感じで。

血を吐いて救急車で、の時は、実は我が家に夜中近くに叔母から泣きながら電話がかかってきて私が対応し、すぐに叔父に連絡して、叔父と2人でお見舞い金を持って翌日に都内の病院まで行ったのです。

それも数年前のことですし、過度の飲酒で胃潰瘍になったことが吐血の原因でした。


私の親戚はほとんど県内に住んでいるため、都内にお嫁に行って未亡人になってしまった伯母のことを、私の父親も叔父も心配していて。

K君に関しては、いじめ?で引きこもっていた時期もあったり、仕事も転職を繰り返していた、うまくいかなかったとかなんとか。

私自身、幼いころから県内に住むいとこ同士とは交流があっても、K君とは交流がない状態が続き、K君の結婚式に呼ばれたのが初顔合わせのようなものでしたが。



とにかく、叔母と話をしても、ラチがあかない。

「うちのKはかわいそうなの」を連発する。

段々イライラしてきた私は「でもね、どこの家も借金くらいあるし、仕事しないと生活できないし、みんな、色々あるよ」と言うと、叔母は、「でもね、うちのKは本当にかわいそうなの」って。



……。

返事をするのも疲れてしまった。


そうか。こうやってこの人は、息子を庇い、守ってきたんだ。

この人は、これが息子を守る手段だと信じているんだ。

息子が矢面に立たずに済むよう、自分が盾になり、様々な「汚れ仕事」を一手に引き受けてきたんだ。

85歳だと言う今も、叔母は、したたかでした。

私、叔母には認知の弱さを微塵も感じることはありませんから。



私には子供はいません。

ですが、もしいたら、どういう母親になったのだろう?と考えてしまいました。

母性というものは、とても強くて美しいものだと思います。

そして、「これが正しい」もないと思います。

それぞれの母性、それぞれの母子関係があっていい。


ただ。

私が叔母との電話を終えて、叔母亡き後、K君はどうやって生きていくのだろう?という、ちょっとした興味が湧いたことも、また事実、でしたね。

私もガマンしているんだから、アンタだってガマンしなさいよ!

自分が、ガマンしてガマンして無理矢理受け入れているものを、他人が簡単にやってのけるのを見て、腹が立つこと、ありませんか?

その裏側には、「私はガマンしてるんだから、アンタだってガマンしなさいよ!」という怒りが貼り付いているのです…



去年の夏に我が家の父親が他界し、私は喪主を務めました。

来月、父親の一周忌の法要を計画し、参会者への連絡をしていたのですが。

一昨日の晩に叔父から電話があり、都内で暮らす伯母とその息子(私にとって従弟)が参会できないとの報告を受けました。

それを聞き、モヤっとした私。

伯母ちゃんは85歳だし心臓が悪いということだから来られないのは仕方ないけど、K君(従弟・47歳)まで来ないは無いでしょ?

この2人、葬式にも四十九日法要にも参会してもらえませんでした。

ですので、叔父に頼んで、一周忌には参会してほしいという私の気持ちを伝えてもらったのですが。


身内のことなので詳しいことは書けませんけど、情が深くて面倒見の良かった我が家の父親は、叔母とK君を何かにつけてサポートして気にかけていたのだから、一度くらい、お線香あげてほしい。

ところが、話を中継してくれた叔父が言うには、K君は仕事があって来られない、と。

なんとも言えないモヤっと感を抱えた私は、昨日の早朝、叔父に電話しました。

そして、K君が仕事だから来られないと言っていることについて、私なりの意見を言った。

すると叔父は怒りだし、「Kの仕事のことも理解してやれ!」と怒鳴って。

そう言われると黙っていられない私もケンカ腰で反論し、結局、激しい口論になってしまいました。


この件を妹に電話して報告しながら、私は電話口で号泣。

叔父に自分の気持ちを理解してもらえないどころか、批判されて、悔しくて悔しくて。

ですが私は、このトラブルを通じて、とても大事な気づきを得たのです。


なぜこんなに、K君に対して腹が立ったのか?

叔父に対して腹が立ったのか?

その答えが分かった。

それは私の心の中にあった、「犠牲者の意識」だったのです。




私は、去年父親が息を引き取った時から、大きなプレッシャーを抱えることになりました。

認知症で施設に居る母親に代わり、喪主を務めないとならない。

そしてその後の処理や法要に関することを、全てしなければならない。

葬儀の後始末、相続関係、遺品の片付け、etc.

当時は母親の施設移動が加わり、妹が手伝ってくれたとは言え、本当に辛かった。

でもそれが、未婚で親と同居する長女の役割なのだと自分に言い聞かせ、弱音を吐く場所もなく、ただただ淡々と処理をしたことを覚えています。

そして今回の一周忌法要。

父親の年金が入らなくなり、蓄えもなかった我が家では、私は自分で自分を養うために働くしかない。

派遣社員として働く給料の中での一周忌法要ですし、ここ最近まで体調も良くなかったため、「できればやりたくない」と思っていたのが事実です。

しかし、子供が亡くなった親の供養としての法要をするのは、世間一般では当たり前のこと。

「やりたくないから、やらない」という選択肢は私にはありませんでした。


だから私は、叔父に言ったのです。

「仕事仕事って、みんな仕事してるんだよっ!? お葬式の時、みんな仕事を休んで来てくれてたじゃん!? それに、家が遠いって、H(母方の従弟)なんて、K君よりもっと遠くに住んでるのに、ちゃんと四十九日には来てくれたんだから!」

けれども、その言葉の裏側にあった、私の真の気持ちは…

「私だって、親の一周忌だから仕方なくやるんだ! だってそれが、世間の常識だろう!? 義理も果たさず、自分の理由で来ないなんて、そんな自分勝手が許されるわけない!」

だったことに気づいた…


やりたくないことなのに、金も労力も出す、時間も使う、気も使う。

でも、そういうものでしょ? 故人の供養って。

私はこの「それが常識でしょ」の「犠牲」になることを、「仕方がないことだ」と諦めていたのです。




どうでしょうか?

こういったこと、あると思うんです。

自分が「タブー」にしているものは、他人にもそれを押し付けてしまう。

ガマンしてるんだから! 頑張っているんだから!

と、自分が自分に無理させていることがあると、他人にもそれを要求してしまうのですね。



私は昨日、この件を通じて、自分の中にこういった「闇」があったことに気づいたのでした。

ただ、親の供養として今後行うものは、やはり、「やりたくない」では済まないと思っています。

ですので、自分一人で負荷を背負い込まないよう、妹や周囲の人たちに手伝ってもらうようにすると決めました。

そして何より、自分の「タブー」を他人に押し付けないこと、ですね。

私がブログでネガティブネタを書く理由

私のブログネタ、けっこうネガティブですよね?(笑)

メンタルセラピストがこんなんでいいんかいっ!?と思いません?


私は「問題解決」が好きです。

なのでメンタルケアの仕事も、「問題解決」を求めています。

そうなると当然ながら、「問題」を扱うことになり、人間のネガティブな部分に触れることになる。

このブログは、そういった流れのものです。

「問題」があって、「問題解決」がある。



私がメンタルケアの仕事を始めて最初にしたことが、ブログをスタートさせることでした。

FacebookもTwitterも無かった当時は、ブログでの集客が一般的でしたので、まずはブログを書くことにしたのです。


その時、自作のホームページを手直ししてくれたweb屋さんに言われたのは、「ブログは読み手に有益な情報を書くこと」でした。

ですが私は、何が有益なのかさっぱり分からず、書きたいことを書いていた。



本来なら、というか、一般的には、メンタルケアの仕事をしている人たちは、今の私のような記事は書かないのが普通でしょう。

私も、こういった内容の記事を何度もバッシングされてきましたし。

「心理カウンセラーが自分のメンタルケアもできないの?」など、何度もコメントを頂戴しちゃいました。


でも私がこういった内容の記事を書くのは、「人間にはネガティブな部分があってもいい。ネガティブな自分を否定して排除しようとしないでほしい」という思いからです。

ブログも集客ツールの一つだと捉えれば、読み手に媚びることも必要かもしれません。

けれども、「自分らしくありたい」と願う私は、この辺に反発してしまうのです。

「有益な情報を」と言っても、何をもって有益な情報とするか?も、人それぞれではないでしょうか?

全ての人を満足させる、どこにも穴のない完全なものなど、この世に無いでしょうし。


確かに私は、自らが「問題」を抱えてばかりいて、ネガティブに陥り、苦しみます。

しかし、自分のメンタルケアができるのが心理カウンセラーなどとは、聞いたこともありません。


バッシングのコメントを頂戴したり、私のスタイルに批判的なことを言われた時は、正直、凹みまくりました。

でも今は、「そういうのも全部マッチングだから、嫌だと思う人は読んでくれなくていいで~す」という意識でいます。

ネットという、顔が見えない、個人が特定できない世界では、人のしていることに対して無責任に意見できてしまうでしょ?

なので、以前ほど気にしなくなりましたよ。


私は、「これが絶対に正解」というものは、世の中にそんなに無い気がします。

それぞれがみんな個性という「人と違っていていいもの」を持っていて、それを公開する場が、ブログとかSNSですよね。



ただ私も、「悪意」を書かないよう、それだけは気をつけているつもりです。

誰かを批判したり攻撃したりすれば、それは自分に返ってきますから。



また、私の仕事は、クライアントの「心の闇」に触れることを避けられません。

それはとても責任が重く、リスキーなこと。

ですから、私自身が「心の闇」をさらけ出し、痛みを分かち合う覚悟を示したい。

クライアントの「心の闇」に触れることを許可してほしい。

そんな気持ちもあって、こうした形でブログにしています。

傷つき過ぎて疲れてしまった心に必要なことは

今日の私は朝からネガティブです。

頭痛がするし、気分は最悪。

せっかくの晴れなので洗濯2回して、本日の業務は終了。

スーパーに食材買いに行くのは明日にして、今日は冷凍ストックで過ごすことにしました。


こんな日はいつも、親友にメールでダラダラ愚痴ります。

って、昨日も長文愚痴メールしたよね?

親友にメール送信した後、占いサイト見たり、読み応えありそうなブログ探したりしてたのですが。


とあるブログを発見。

本出してるとかしてる、成功者なのね。

確かにポジティブなこと書いてるよね。

うーーーん。

でもさー、それって理想論じゃん?

あなたはきっと、「持ってる人」なのよ。

私とは違うの。


とか何とか、書かれていることにイチイチいちゃもんつける自分に気づきました。

全く共感できない。

その通りだとは思えない。

私、すっごくネガティブじゃない?



今私が抱えている苦しみは、「次の仕事が見つかるかどうか?」です。

ストレスまみれの派遣先の次の契約更新をしないと決めたのはいいのですが、そうなると当然、次の仕事を探さないとなりません。


でも、そう簡単には見つからないのが現実で、ハローワークなどの求人サイトを見てはタメ息つく始末。

だもんねー、頭だって痛くなるよねー。



と、ふと思い出したことがありました。

それは、私がメンタルケアの仕事を始めて間もなくのころに出逢った、男性クライアントのこと。


今日、とあるブログを読んだ私は、その時の彼と同じだ。

そう気づきました。


…あぁ、あの彼は、ひどく傷つき、人間不信に陥っていたっけ…

辛くて苦しくて、悲しくて、寂しくて…、世界中に自分の理解者は誰もいないって感じだったね…

あの時、彼の苦しみは、誰かに自分のことを理解してもらいたいという欲求の諦めからくる、苛立ち、怒り、世の中の全てを否定して憎んでいるかのようなネガティブな意識。


そう、そこまで傷ついてしまった人に、ポジティブシンキングを勧めたところで、無駄なのでした。

なのに未熟な私は、ネガティブから脱してポジティブに考えるようなアドバイスばかりを繰り返していたのです。


じゃあ、どんなアドバイスをしたら良かったのか?

それは、今の私に対するアドバイスでもあります。


今は…

「少し休みましょう」

かな?

「今は、何もしなくていいです」

ですね。

無理してポジティブになろうと、ポジティブ寄りの言葉を受け取ろうとしなくていい。

今は、「心が疲れている」のですもん。



風邪をひいた時に、やわらかいお粥を食べたり、温かいうどんを食べるように、心にも、優しくてやわらかい、温かいものを与えてあげる。

それは、「頑張って!」という言葉ではなくて、

「頑張れない時には休んで寝ていていいんだよ」というスタンスの言葉。



人間だけでなく、物事が変化していく時には、「段階」があり、そこには「時間」も必要です。

ポジティブになれない時、頑張れない時、モチベーションがない時、そういう時もあるのが人生。

だって私たちには、「心」があるのですもん。

「心」だって、傷ついて、疲れてしまうことがある。

それが普通。


まずは、マイナスになってしまったエネルギーを、ゼロまで戻す。

休んで、休んで、休んで。

今はまだ、ポジティブじゃなくていいのですよ。