簡単に手に入る「偽物」で誤魔化していないか?

ここ最近のブログネタは「欲求」に関することだな~、と改めて気づかされます。

自分の中の「欲求」を、嫌悪したり憎んだり「不必要なもの」と扱うことの、なんて多いこと。


先日、1日会社を休みました。

ちょうど仕事が手隙になったので、未だ悩まされているめまいを診てもらうために、思い切って休んだのでした。

耳鼻科を午前中に受診して、どこかでランチを食べようかと考えた。

しかし、どこで食べるか全く決まらず、結局マックのドライブスルーに寄って、運転しながらハンバーガーをパクついていた私。

とりあえず、ランチするくらいはお金を持っていたし、今日は休んだのだもの、どこかで美味しいものを食べてもいいんじゃないの?

そう考えてはいたものの、じゃあどこへ入るか?全く決まりませんでした。

その後も、「久しぶりにカラオケ行く?」とか「ちょっと足を延ばしていつも行けないショッピングセンターに行く?」などと頭には浮かぶのですが、その辺をぐるぐると車で回っているだけ。

とりあえず書店に入り、念入りに物色して、何冊か興味の湧いた本を購入。

書店の後は、すぐ近くのショッピングセンターに入り、なんとなくブラブラ。

けど、これと言って買いたいものもなくて。

その後は、ちょっと移動して別のショッピングセンターに。

そこで私は、一目惚れしたバッグを買ってしまったのでした。


が。

お店で見た時には「運命の出会い」のように感じて、「これは絶対に買わなきゃ!」と買ったバッグなのに。

今現在、お店の袋に入ったまま、パソコンの横のハンガーラックに掛けてある…

欲しくて買ったものだったはず。

なのに、帰宅して袋から出すことさえしていない。


実は最近、こういうことが本当に多いのです。

買ってきたまま、袋に入ったまま、値札ついたまま、放置してるって。

まぁ、軽く「買い物依存症」ですよね。

ちょっとショックです。

そんな自分に気づいた後、思いました。

私、「偽物」で満足しようとしているな~、と。


私は誰もが見て分かるデブですが、それは、食べる量が多い、甘いものばかり食べている、からです。

最近知ったのですけど、人間てストレスを感じると食欲増進ホルモンが出るんですってね。

あ~、私、これこれ、って思っちゃいました。

甘いもの食べたいって、近所のコンビニに行く。

最近のコンビニスイーツ超美味い。

何種類かまとめて買う。

帰宅してコーヒー淹れて、まとめて一気食い。

あ~、幸せ~。

って、こんなことの繰り返しです。

食べること、買い物することって、手っ取り早く幸せ感を得られます。

だから、「自分の本当に欲しいもの」じゃなくても、とりあえずの満足を得られるわけで。

でも、「本当に欲しいもの」は相変わらず手に入らないままですから、その場しのぎの幸せ感を重ねるだけで、心はちっとも満たされない。

じゃあ、甘いもの食べるのも買い物するのもやめたらいいじゃない?と思いますか?

いやいや、そうすることで何とか自分を保っていられるのですから、それらが無くなれば悲惨なことになってしまいます。


では、「その場しのぎの幸せ感を味わう」とする「代償行為」は、いったい、何の「代償行為」なのでしょう?

本当に欲しいものは、いったい何でしょうね?

それが、直前の記事にもした、自分の中の「寂しい」に繋がるものだと思います。

「自分の本当の欲求」に気づくことは、ちょっとしたコツがいるのかもしれません。

でも、その真実に気づかず、「偽物」でお茶を濁している方が不幸かな?と思いました。

誰からも相手にされない「寂しい人間」だと笑われたくなかったから

私の、私自身に対しての「気づき」です。

私は、「寂しい」という感情や感覚を持つことを、怖れていました。

つまり、「寂しい」を感じたくない、味わいたくない、と思っていたのです。


我が家の親たちは共稼ぎ夫婦でしたから、子供のころの私はいつも寂しかったと思います。

でも、その「寂しい」を親に訴えることができず、いつからこんな風に考えるようになったのか、「寂しい」を感じたくないために、自分自身を操作するようになったのでしょうね。


私には、「他人からこう思われたくない自分」が、いくつかあって、「面倒臭い奴だと思われたくない」はその1つです。

そして今回気づいたのは、「寂しい奴だと思われたくない」でした。

こんな感覚が私の中にあったことに気づいた私は、ちょっとした衝撃を受けましたが。

世間から「寂しい奴」と思われる人は、周囲の人たちの誰からも相手にされず、誰からも必要とされない、孤独な人。

これが私の中の「寂しい奴」でした。

人間的に魅力がない、人に期待されるような、必要とされるようなスキルも持っていない。

そういう「寂しい奴」だと人から笑われたくないがために、私は、自分の中にある「寂しい」を表面化させないようにした。


若いころは、自分から他人に擦り寄って行っては、必死で自分をアピールしていたと思います。

でも、年を重ねて、そういったアピールが「痛い」年齢になり、「寂しいからかまってほしい」と擦り寄ることをやめたのです。

でも「寂しい」は変わりませんから、私が自分の中の「寂しい」を封印するためにしたことは、「私は孤独が好き」という自分を周囲にアピールすることでした。

そう。

誰からも相手にされない寂しい奴じゃなくて、私が周囲を遠ざけてるの。

だって、独りの方が気楽で、好きなのだもの。

こんな感じでしょうか?

当の本人の私も、この自分が本来の自分だと思っていたくらいです。

けれども、違いました。

「素直じゃない」と言えばそうなのかもしれません。

ですが私は、「寂しい奴」だと笑われることを回避したかった。

だから、本当は欲しくてたまらないものを、「欲しくない」と、「痩せ我慢」していただけなのでしょうね。


心理学でよく使われるのですが、イソップ寓話の「酸っぱいブドウ」という話があります。

高い場所にあるブドウを食べたいキツネは、手が届かずにブドウを取ることができない現実に対し、「あれは酸っぱくて美味しくないブドウなんだ」と言って去る、といったお話です。

まさにこれと同じことを、私はしていたのではないか?

そう気づいてしまった時、恥ずかしいのと悲しいのと…、言葉では言えない気持ちになりました。



私たちは時に、欲しいものがあるけれど、それが手に入らないと認めて傷つく自分を許せません。

傷つく自分を受け入れたくないから、「いや、そんなもの、私には必要ないんだよ」と、「欲しい」とする欲求そのものをなかったことにしたがる。

私は、50歳すぎてこんな感覚を持っていた自分に気づき、驚きました。

…私が?寂しいって?嘘でしょ?と。

でもね、寂しいものは寂しいんです。

だって、職場では、気持ちを分かち合ってくれる人どころか、世間一般的な雑談さえする相手がいないのですから。

家に帰れば猫一匹。

朝から挨拶以外一言もしゃべらずに帰宅する日も、決して珍しくなく、帰宅して猫に話しかけても会話にはなりませんし。


自分の中の「寂しいを認める自分」を解放したところ、「人と喋りたい自分」も同時に解放することができました。

今の職場は、男性の中で女性が1割ほどしかいません。

次の職場は、女性がたくさんいて、思う存分お喋りできる環境がいいな、と思います。

「人に気にしてもらいたい」「人と喋りたい」「必要とされたい」って、人間なら普通に持っている欲求ですよね。

だから、そういう欲求を持っているとカッコ悪い、バカみたい、って思うの、もう、終わりにしました。

自分だけが悪いんじゃない。「継続」できない環境も問題

夕方、ふと思いました。

最近、「私はダメだ」という気持ちにならないな、と。

本来の私は、というか今までの私は、根が暗くてネガティブで、何かにつけては自分を責めていました。

色々とうまくいかないのは、全部自分のせい。

誰かに意地悪されるのは、私がトロいからだ。

仕事がうまくいかないのは、私の能力がないからだ。

理解力や記憶力が低いからだ。

などと言っては、「被害者モード」に入っていました。


が。

今の職場に入ってから、「それはそうでもないかも?」と思う事が多々あって。

仕事でミスを指摘された時、私テキには、それはミスではなくて、知らなかっただけのことでした。

でも、ミス扱いされて悲しい思いをしていたのです。

あると、ある時、今までミス扱いされていたことを指摘した、ある社員が言いました。

「教える方がちゃんと教えていないからいけないんだよ」と。

そして、その社員は、私を責めなかったのです。

私、「え?」って思った。

今までこんなこと、言った人いない。

知っていることだろうが知らないことだろうが、仕事を間違う派遣社員の私が悪いのだとして、私が一方的に責められていましたから。

ですが、今いる職場は「教える側が悪い」というスタンスらしく、数か月前に別部署の仕事をしてトラブった時も、課長自ら私を庇ってくれて仕事を振った若い社員を叱ったこともあります。

ありがたいことに今回の職場は、上司たちに恵まれました。

ストレスを抱えながらも辞めることを悩んでいたのは、その人たちがいたからです。


そんなことが続いたせいか、私は、「何でもかんでも私が悪い」という考えから遠ざかっていたのだと思います。

親友や妹が愚痴聞き役&アドバイザーになってくれていたこともあって、私は「自分を責める癖」を少しずつ手放してこれました。

今の仕事をしてみて、「これは能力の問題ではなく、経験の問題だな」と思うのです。

そして、その「経験」は、その職場に長く居られることで得られるもの。

だとしたら、「長く居られない」は私だけの問題ではない、と考えた。


社員だろうと派遣社員だろうと、パートだろうとアルバイトだろうと、職場の環境、人間関係が良ければ、仕事が合わない限りは続けられると思います。

続けることで経験値が上がり、キャリアとして積み重なって、仕事ができるようになるのではないでしょうか?

企業側は私たち働く側の履歴書を見ては、「すぐに辞める。仕事が続かない」と人間的にダメな奴だとレッテルを貼りたがる。

でも、常に求人を出している、働く側の出入りの激しい企業もあるのです。

なので、その個人ばかりが悪いとは言えないと思った。


私が過去に体調不良で辞めた某派遣先は、2年間で4名の派遣社員が入っては辞め、もって6ヶ月、最短1ヶ月のようでした。

仕事に対しての合う合わない、だけでなく、その職場に対しての合う合わないも、あるのですね。

ですから、「自分が無能だからいけないんだ」「根性が足りないんだ」などとは考えなくてもいいってこと。


数えきれないほどの職場で働き辞めてきた私が、就活で面接に行ってみて思うのは、ずいぶんと雑な扱いをする企業はたくさんあるということ。

面接を受ける側(雇用される側)にはモラルを要求するくせに、面接官から明らかにハラスメントと思えるような質問をされたり、バカにされたりもしてきました。

そういうことも現実としてありましたから、今は、「私なんか」と自分を卑下することなく堂々と就活すべきだな、と思うのです。

「相手がある」場合は、片方だけが悪いということは、あんまり無いでしょ。

「お互いさま」ですよね。

「こうあるべき」「それはあり得ない」

私たちはみんな、その人なりの「正しい」や「理想」がありますよね。

そしてそれがベースになって、物事や役割に対して「こうあるべき」といった考え方を作ります。

その、「こうあるべき」と「それはあり得ない」はセットです。

このように、「そうあるべき」「~すべき」という考え方を、認知行動療法では「べき思考」としています。


日々の生活の中で、この「こうあるべき」「それはあり得ない」が多いと、少々窮屈ではないでしょうか?

役割や物事に対して「こうあるべき」が多い人は、ストレスを抱えることも多い気がします。

自分の中の「こうあるべき」をモノサシにし、世間や他人に対して「それはあり得ない」と裁きがちでしょうから。


他人に対しての「こうあるべき」という考え方は、「こうして欲しい」とする要望とは違います。

なので、他人の「それはあり得ない」とする部分に対して、コミュニケーション的には威圧的で上からな言動をすることになったりしませんか?


けれども、自分に「こうあるべき」や「それはあり得ない」があるなら、同時に、他人にも他人の「こうあるべき」」「それはあり得ない」が存在します。

ですから、自分の「こうあるべき」「それはあり得ない」は、自分だけにしか通用しないことが多いです。

たいがい、ほとんどの人は、自分のしていることが「正しい」と思っていますから、他人からの「こうあるべきの押し付け」には反発するでしょ。

まぁ、他人の考えや他人のすることには、自分の「こうあるべき」を押し付けないことですね。

それこそ、「余計なお世話」としてイラッとされてしまうかも?ですよ。

「こうあるべき」を他人に押し付けすぎると、人間関係にヒビが入る可能性、大です。

自分自身も、自分で設定した「こうあるべき」に縛られて窮屈な思いをするでしょうし、他人にもそれを当てはめようとして人間関係のトラブルを招くなんて、損な話ですね。

損しないためにも、自分の中の「こうあるべき」は、できるだけ少ない方がいいと思います。

一番言いたいことを言わないから伝わらなかったの

私は口数が多いわりに、相手に自分の事情や気持ちが伝わらなくて悲しい思いをすることが、よくあります。

その理由が分かりました。

私は、自分の発言したことを人にどう思われるか?をとても気にします。

ですので、「ホンネ」を言うことをためらう傾向です。

特にその「ホンネ」が、相手にとって都合の悪いことだと思うものは、「言わない」を選ぶ方が多い。

こうして自分の「ホンネ」を言わずに飲み込んできた結果、不満や怒りを抱え込み、最悪、何かの機会に爆発するといったことを繰り返してきました。

だいたい、「相手にとって都合の悪いこと」って、その相手に対しての不満や怒りなんですよね。

そうじゃないことって、言えますもん。


で、「どうして私の気持ちは伝わらないのか?」「どうして私は自分の気持ちを上手く言えないのか?」と、ずっと心にあったモヤモヤが、先日、分かったんです。

職場でのことでした。

納期が迫っている仕事をしないとならなかったのですが、私のスキルでは間に合わないと判断した私は、上司にそれを言いに行きました。

が、相手にしてもらえない、というわけではありませんでしたが、イマイチ真剣に取り合ってくれていない感じがして、イラっとした。

そこで私は、その上司とのやり取りの中で、今まで言いたかったけど言えなかったことを言ったのです。

そういう時、今までの私は、諦めていました。

「伝える」ことを諦め、自分が苦労して仕事をする方を選んできたのです。

けど先日の私は、今まで腹にあったけど言えなかったことを、言ってしまった。

だって、もう辞めるんじゃん?

嫌われてもいいよね?

そう、瞬間的に思ったから。


そこで気づいたのです。

そっかぁ、核心を避けて遠まわしに言ってたからダメだったんだ、と。


私は猜疑心や警戒心が強く、安心して関われる人かどうか分からない間は、心を許さない傾向です。

でも、核心(こちらのホンネ)を避けた話題でやり取りしている間は、相手のホンネ(真実)も分からないもの。

こちらが腹の中を見せた時、相手がどうするか?

逃げるのか?

攻撃してくるのか?

軽蔑するのか?

拒絶するのか?

それとも、受け入れてくれるのか?

それこそ、ホンネを言ってみないと分からない結果なのです。


私の妹は「言いたいから言う」というスタンスの人ですから、こちらの言葉に対してのレスポンスが早いし、軸がブレません。

ですが私は、「相手の機嫌を損ねたくない。嫌われたくない。逆切れされて攻撃されたくない」といった事情を抱えて言葉を選ぶため、レスポンスは遅くなるし、つじつまが合わないことを言いだして、自分が何をしゃべっているのか度々分からなくなったりします。

そして、結果として、とても疲れます。


言いたくないホンネを避けて、遠まわしに話を持って行き、「察してよ!」と心で叫ぶ。

しかし、「察してよ!」なんて心で叫んだところで、相手には届かない。

言葉にして伝えた分しか届かないのが普通ではないでしょうか?

言わなきゃ分かってもらえない。

そういうことなのですね。


私はこれから、問題解決が必要な時には、自分が一番言いたいことを言うことにしました。

リスクを恐れているだけでは、真実(相手の本当のこと)は手に入らないですもんね。

私ばっかり損してる。私だって「お母さんの子供」なのに。

私自身のことです。

私は長女で、5歳年下の妹がいますが、その妹に対して、以前から抱いていたモヤモヤがありました。

でもそれは、言えば妹を傷つける、怒らせるかもしれない、と考え、ずっと言えずにいたのですが。

それを今日、思い切って妹に話しました。


「親は妹ばかりを可愛がる、妹ばかりを優先する」と、私は子供のころから不満を持ち続け、それは嫉妬という形で妹に向かっていたと思います。

我が家の親たちは共稼ぎ夫婦でした。

物心ついた時から、親と接触した記憶はあんまり無い。

保育園の時の私は市内のとあるおばあさんに預けられていて、母親が仕事帰りに迎えにくるという日々でした。

なので、妹が生まれる前から寂しい思いをしてたのですが、妹が生まれてからは、さらに寂しい思いをすることに。

共稼ぎのために時間がない母親は、妹の面倒を見るよう、私に言いつけます。

アルバムには、乳飲み子の妹を抱っこしている、オカッパ頭の幼い私がいる。

私は妹が生まれてから、親から名前で呼ばれることはなくなり、「姉ちゃん」と呼ばれるようになりました。


私は少し前、自分の中の満たされない自分、の存在に気づきました。

それは、自分も同じように母親の娘なのに、私は母親に甘えることができず、まるで「小さいお母さん」のように働かなきゃならなかったこと、だったのです。

正直言って、妹に比べて「私ばかり損している」と思ってきました。

そこには、「お姉ちゃんなんだから」と言われては、親からガマンや犠牲を強いられてきたからだと思います。

妹には何の罪もないことは分かっているのですが、親から不平等に扱われているという思いは常にありましたね。


そんな思いを、中年になった今だからか、憎しみも恨みもなく、ただ妹に知ってもらいたかった。

私はこんな風に思っていたんだ、と、ただそれだけ知ってほしかったのでした。


家のことをするたびに、「手伝うよ」と言ってくれる妹の言葉を、「大丈夫だよ」と言っては受け入れられない自分がいます。

でも、年を取り、自分だけで頑張ることが少々困難になってきて。

意地を張らずに助けてもらうべきだな、と、ここ最近になって観念したというか(笑)


妹には子供が2人います。

なので私のこの気持ちは理解できると言ってくれました。


私は第一子なので、妹や弟の立場の人の気持ちや事情は分かりませんが。

妹が生まれたことで、「お母さんの助手」「お母さんの代わり」でいなければならなかった子供の私に、今日は、「ごめんね」と「ありがとう」と「お疲れ様ね。大変だったね」を言ってあげました。


こういうの、「インナーチャイルド」っていいます。

子供の時の満たされなかった自分に気づいてあげて、今の自分から声をかけてあげると、とても気持ちが楽になりますよ。

「自由に・自分らしく」気づき・学びをゆる~く更新予定

今回、ホームページをWordpressで作ってみました。

なので、今までは別に作ってリンクしていたブログも、ここで一緒に書けるわけですね~

内容は今まで同様に、私自身の日々の生活の中の出来事、感じたことや気づいたことを、不定期でゆる~く綴っていく予定です。

いいことも悪いことも、ポジティブもネガティブも、ぜ~んぶあるがまま、自分で自分らしいと思えるブログにしたいと思っています。